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「拷問に近い批判を、私の家族にまで…」ドゥンガが語る“地獄と栄光のW杯”「ロマーリオの夜遊びをアシスト? 初耳だ(笑)」 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byLutz Bongarts/Getty Images

posted2023/07/16 11:01

「拷問に近い批判を、私の家族にまで…」ドゥンガが語る“地獄と栄光のW杯”「ロマーリオの夜遊びをアシスト? 初耳だ(笑)」<Number Web> photograph by Lutz Bongarts/Getty Images

アメリカW杯を制してトロフィーを手にするドゥンガ。しかし4年前は“拷問レベル”の批判にさらされた

「ブラジルのフットボールの歴史で、国中の人々から拷問に近い扱いを受けた選手が2人いる。1950年の自国開催のW杯のウルグアイ戦で痛恨のミスを冒して敗戦の責任を負わされたGKモアシール・バルボーザとこの私だ。国中どこへ行っても、すさまじい罵詈雑言を浴びた。しかも、私だけでなく私の家族まで……。耐え難いことだった」

――確かに、当時のあなたへの批判は常軌を逸していました。以後、あなたはセレソンから完全に忘れられた存在となります。フィオレンティーナへ戻ったわけですが、当時、何を考えてプレーしていたのですか?

「W杯で敗退した言い訳をしても仕方がない。この借りは、次のW杯で返すしかない。ただし、私がまたセレソンに招集されるかどうかはわからない。もう二度と招集されないことも十分にありえた。

 でも、私は諦めなかった。『クラブで良いプレーをしていれば、必ずチャンスが来る』と信じ、『その時のために、しっかり準備をしておこう』と考えた。父親も、『理不尽な批判をした人たちを見返してやれ。お前ならきっとできる』と励ましてくれた」

肉離れを起こしていた中での“人生の賭け”とは

――技術的にも、何か改善しようと考えたのですか?

「それまでは守備に重点を置き、攻撃にはあまり参加しなかった。しかし、中盤でしっかり守るだけでなく、効果的なパスを出して攻撃の起点にもなりたいと考えた。そこで、タイミングを見計らって正確なパスを出す練習を積んだ」

――そして、1993年2月、つまり1990年W杯ラウンド16の敗戦から実に2年8カ月後、奇しくもアルゼンチンとの強化試合(注:アルゼンチンサッカー協会創立100周年記念試合で、試合地はブエノスアイレス)へ招集されます。

「待ちに待ったチャンスが来た、と思った。しかし、問題があった。当時、ぺスカラ(イタリア)でプレーしていたが、太ももに軽い肉離れを起こしていた。チームはホームで試合があり、それが終わり次第、ブエノスアイレス行きの飛行機に乗る予定だった。しかし、筋肉系の故障は悪化すると厄介だから、本当は無理はしない方がいい。ただ、この試合で故障を理由に欠場したら、セレソンへの招集が取り消されかねない。そこで、リスクを冒すことにした。この試合でフル出場してから、セレソンの一行に合流した。

 代表戦では、終盤にピッチに立った。わずか数分間だったが、私のキャリアにとって重要な意味を持つ時間だった。この試合でプレーしたから、その後も引き続き招集されたのだと思う。人生では、キャリアでは、リスクを承知で勝負すべきときがある。幸いにして、このときの賭けは吉と出た」

【次ページ】 初の南米予選敗退の危機で…

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