熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「拷問に近い批判を、私の家族にまで…」ドゥンガが語る“地獄と栄光のW杯”「ロマーリオの夜遊びをアシスト? 初耳だ(笑)」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byLutz Bongarts/Getty Images
posted2023/07/16 11:01
アメリカW杯を制してトロフィーを手にするドゥンガ。しかし4年前は“拷問レベル”の批判にさらされた
「とはいえ、我々は数的不利の状況も想定した練習をしていた。『何がなんでも勝つ』と自分にもチームメートにも言い聞かせてプレーを続けた」
――後半27分、ロマーリオがドリブルで中央を突破して右サイドへパスを送り、ベベットが右足でファーサイドへ流し込む。これが決勝点となり、セレソンがアメリカを下します。
「この試合を乗り越えたことで、チームに勢いが生まれた。『これなら優勝できる』と思うようになった」
PK失敗したバッジョの肩を無言で抱いて…
――準々決勝オランダ戦では、2-2の同点からレオナルドの代役ブランコが見事なFKを叩き込んで勝利。準決勝は苦しみながらもスウェーデンを下し、決勝でイタリアと死闘を繰り広げます。
「オランダもスウェーデンも強敵だったが、常に我々が主導権を握り、落ち着いてプレーできていた。決勝ではフランコ・バレージを中心とするイタリアの守備が素晴らしかったが、我々の方が多くのチャンスを作っていた」
――PK戦で、あなたはブラジルの4番目のキッカーでした。
「我々はPKの練習も積んでおり、私は成功率が高かったからキッカーとなることがわかっていた。思い切り蹴ったらゴール正面に飛ぶような気がしたので、右隅を狙った。決まってくれて、ほっとした」
――イタリアの5人目のロベルト・バッジョが失敗して、ブラジルの24年ぶり4度目の優勝が決まりました。
「それまでずっと夢見てきたことが現実となり、最高の気分だった。それと同時に、うなだれたバッジョに同情した。彼は、(1988年から1990年まで)フィオレンティーナで一緒にプレーした友人だったからね。素晴らしい選手であり、素晴らしい人間。慰めようと近寄ったが、こういう時はかける言葉などない。無言で肩を抱いた」
――表彰式で、歓喜の表情で優勝カップを掲げました。
「子供の頃からのすべての苦労が頭をよぎった。人生で最高の瞬間だった」
フランスW杯決勝、ロナウドの不調は何があったのか
――その後、1998年大会にもセレソンのキャプテンとして臨み、2大会連続で決勝へ進んだものの、地元フランスに0-3で敗れました。
「この大会もGSを首位で突破し、チリ、デンマーク、オランダを倒して決勝に辿り着いた。ところが、試合当日の午後、エース・ロナウドが原因不明のひきつけを起こして病院へ担ぎ込まれた。ザガロ監督は、一度はロナウド抜きで試合をすることを我々に伝えたが、試合開始直前になって彼がスタジアムへ到着した。結局、ロナウドは先発したが、このアクシデントで選手たちが動揺してしまったのが最大の敗因だった」
――この試合を最後に、あなたはセレソンを引退します。私が調べたところ、セレソン史上、あなたは公式戦90試合以上に出場した選手の中で、ペレと並んで1試合当たりの獲得勝ち点が最も多い。91試合に出場して64勝20分7敗で、1試合当たりの勝ち点が2.33。ペレも91試合に出場して66勝14分11敗で、1試合平均の勝ち点は2.33です。
「それは知らなかった。私がペレと肩を並べるなんて……。何よりも勝利を重視する私にとって、それは最高の誉め言葉だ」
ブラジルを24年ぶりに栄光に導いたドゥンガ。代表キャプテンのキャリアの続きが、なぜ日本で創設したてだったJリーグの舞台だったのか。そして契約までの経緯を聞くと、ジュビロ磐田以外の「あるJリーグクラブ」の名前が浮かび上がってきた。
<#3につづく>