熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「拷問に近い批判を、私の家族にまで…」ドゥンガが語る“地獄と栄光のW杯”「ロマーリオの夜遊びをアシスト? 初耳だ(笑)」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byLutz Bongarts/Getty Images
posted2023/07/16 11:01
アメリカW杯を制してトロフィーを手にするドゥンガ。しかし4年前は“拷問レベル”の批判にさらされた
初の南米予選敗退の危機で…
――この年6月、アメリカで行なわれた国際トーナメントのアメリカ戦に、実に3年ぶりに先発。中盤で攻守に奮闘し、チームの勝利に貢献します。
「長い時間がかかったが、決して諦めず、努力を積み重ねたことが実を結んだ。このトーナメントの3試合すべてに先発して、良いプレーができた。これでパレイラ監督の信頼を勝ち取り、セレソンのレギュラーに返り咲いた」
――この年7月、ドイツ・ブンデスリーガのシュツットガルトへ移籍。セレソンでも、主力選手としての立場を取り戻します。1994年W杯南米予選の序盤、セレソンはアウェーでボリビアに敗れるなど苦戦。最終節でホームでウルグアイと対戦し、もし敗れたら史上初めて南米予選で敗退するところでしたが、パレイラ監督はそれまで「チームの和を乱す言動があった」として招集を見送ってきたロマーリオを初めて起用。彼の2得点でウルグアイを倒し、W杯出場を決めます。
「南米予選でセレソンは苦しい状況に追い込まれ、メディアと国民から厳しい批判を浴びた。我々選手は『必ず見返してやる』と誓い、逆にチームがまとまった」
――ロマーリオはあのヨハン・クライフが「ペナルティエリア内では世界一の選手」と称賛したほどのストライカーで、勝負強さも抜群。しかし、時として自分勝手な言動があり、パレイラ監督も手を焼いていました。そこで、あなたが「自分が宿舎でロマーリオと同室になり、彼の実力をすべて出させる」と監督に申し出たそうですね。
「私と彼は、1987年にバスコで一緒にプレーしており、お互いの人間性を良く理解していた。W杯でセレソンが優勝するためには彼の力が絶対に必要だと考え、毎日、彼と話をした。彼は、『W杯で得点王になり、MVPに選ばれたい』と言う。私は、『それなら、セレソンが優勝しなければならない。お前は、チームのためにベストを尽くしてくれ。私が万全のサポートをするから』と言い含めた」
ロマーリオの門限破りを“アシスト”した?
――大会期間中、夜遊びがしたくてたまらないロマーリオに対し、門限破りを“アシスト”したと報じられました。
「それは初耳だな(笑)。私が言えることは、大会期間中、彼はチームの和を乱すことなく、勝利のためにベストを尽くした、ということだ」
――大会期間中、最も困難だった試合は?
「アメリカの独立記念日である7月4日、ラウンド16で地元アメリカと対戦した試合は苦労した。地元観衆は彼らの代表を熱狂的に応援しており、しかもレオナルドが退場処分を受けてしまったからね」
――前半43分、左SBレオナルドが背後にいたアメリカ選手を振りほどこうとしたところ、右肘が顔に入って一発退場。後半は10人でプレーすることを余儀なくされます。しかも左SBの控えのブランコの故障が完治しておらず、パレイラ監督はMFジーニョを下げて本来は右SBのカフーを左SBとして起用せざるをえない、という非常事態でした。