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「大竹耕太郎は泣いていた」熊本の超進学校が大阪桐蔭に挑んだ日…済々黌高の恩師が明かす“本当の顔”「納得しないことはやらない」
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田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph byJIJI PRESS
posted2023/06/21 11:03
![「大竹耕太郎は泣いていた」熊本の超進学校が大阪桐蔭に挑んだ日…済々黌高の恩師が明かす“本当の顔”「納得しないことはやらない」<Number Web> photograph by JIJI PRESS](https://number.ismcdn.jp/mwimgs/b/5/700/img_b56c7afee093b67567024780556a278e331700.jpg)
「熊本の超進学校出身」で甲子園出場も果たした大竹耕太郎。高校時代は大阪桐蔭と対戦していた
元監督が明かす「最強世代」の後悔
話は済々黌時代に戻る。大竹3年時の同校は、前年夏に続いて2013年センバツ甲子園にも出場。強豪の常総学院(茨城)を2-0で破り、優勝した1958年以来55年ぶりのセンバツ勝利を挙げた。大竹も投げては完封、打っても先制の適時三塁打を放つなど投打で大活躍した。3回戦は済美(愛媛)に1-4で敗れた。
3期連続甲子園がかかった最後の夏。結論から言えば、県大会の準決勝で文徳に4-5で敗退し、大竹の高校野球は幕を閉じた。
池田には今もひとつの悔いが残る。
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「強豪校の監督さんはよく『選抜が終わったら1度山を下りなければならない』と言います。私はその意味を当時は理解できず、センバツが終わってからもメンバーを大きく変えることなく戦い続けてしまった。休養も必要だったし、選手たちに新しいモチベーションを持たせないといけなかった。大竹も最後の夏は股関節の状態が万全ではなかったんです」
早稲田に入学…そして育成ドラフトで
大竹は高校入学当初から「大学を経由してプロに行きたい」と決めていた。早稲田大学のスポーツ推薦の枠を得られたことで進学を決めた。
早大では入学まもなく東京六大学野球リーグのマウンドに立ち、1年秋には開幕投手も務めた。2年生春にはベストナイン。3、4年では怪我に悩まされたこともありプロ入りに暗雲も立ち込めたが、2017年の育成ドラフト4位でソフトバンクに入団することができた。
「私は育成選手だったとしても、プロ入りは大いに喜びました」
池田と大竹はメールでやりとりすることはあったが、直接電話で話すことは殆どなかった。池田は「プロに入ってから電話があったのは2度だけかな」と振り返る。
1度目は2018年7月の終わり。入団1年目にして育成から支配下登録に昇格が決まったときだった。
そして2度目の電話が鳴ったのは、年の瀬が近づく昨年12月9日のことだった。
〈つづく〉
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