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83歳の中西太が奏でた“忘れられないスイング音”…怪童と呼ばれた大打者の知られざる伝説「バットを構えると、とたんに変身してしまう」 

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安藤嘉浩

安藤嘉浩Yoshihiro Ando

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photograph byBUNGEISHUNJU

posted2023/05/23 11:01

83歳の中西太が奏でた“忘れられないスイング音”…怪童と呼ばれた大打者の知られざる伝説「バットを構えると、とたんに変身してしまう」<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

現役引退後の中西太(1971年撮影)。数々の伝説を残した「怪童」は、指導者としても多くの強打者を育て上げた名伯楽だった

「あれは、お詫びの行脚だった」名伯楽誕生の真相

 1933(昭和8)年に香川県高松市で生まれ、野菜の行商をしていた母親に育てられた。

「勉強は一所懸命しなさい。人様に迷惑をかけるな。それが女手一つで育ててくれた“ばあさん”の教えだった」

 12歳で終戦を迎え、「たまたま焼け野原で先生が教えてくれたのが軟式野球だった」という。翌1946年、旧制高松一中に入学。3年生になった1948年に、学制改革で新制高校ができた。

「わしらの学年だけ、中学3年生なのに高校の秋の大会に出られた。だから、わしは高校1年になる春に、甲子園に出とるんだ」

 確かに、高松一高に入学する1949年の選抜高校野球大会に、中西さんは出場している。

「バットと米を持って、関西汽船に乗って行った。甲子園はびっくりするぐらい、スタンドがでかかったね」

 高松一は1勝したが、準々決勝で小倉(福岡)に敗れる。相手投手は、夏の甲子園大会を連覇している福嶋一雄さんだった。

「福嶋さんはチェンジ・オブ・ペースでコーナーを突いてくるんだ。こっちは、まだ中学生の時分でね(実際は卒業直後)。何が何だかわからんまま試合が終わっとった」

 同年夏と、3年生になった1951年夏の全国高校選手権大会にも出場し、高松一はともに準決勝まで進出した。

「滞在期間が長くなると大変やった。『兵糧が尽きるぞ!』と大騒ぎになる。それも含めて、忘れられない素晴らしい思い出だよ」

「高校時代の思い出は、わしの大勲章。日本の野球は、伝統ある高校野球大会が基礎になっている。甲子園を目指す素晴らしい情熱があって初めて、辛抱とか仲間意識、協調心が育まれる」

「育てて勝つ。高校野球の原点をプロも忘れてはいけない。これはわしの遺言だ」

 中西さんの野球談議は尽きなかった。

 話題はいつしか、1969年の八百長疑惑事件、いわゆる「黒い霧事件」に及んだ。選手兼任監督だった中西さんは、道義的責任をとってユニホームを脱いでいる。

「監督としての責任がある。そのあと、あちこちのチームでコーチをしたやろ。あれは、お詫びの行脚だった。野球界にご迷惑をおかけした。わしにできることは、野球を教えることしかないからな」

 若松勉(ヤクルト)、掛布雅之、岡田彰布(ともに阪神)、田口壮(オリックス)、岩村明憲(ヤクルト)……。西鉄のユニホームを脱いだ後も7球団で監督やコーチを務めた名伯楽の指導で、数多くの選手が才能を開花させた。

【次ページ】 85歳でノーバン投球も「本番に強いやろ」

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