アスリート万事塞翁が馬BACK NUMBER
ドラフト1位指名から7年、野中徹博は中華料理屋で「ラーメンのダシ」をとっていた…甲子園の英雄が阪急で味わった“一度目のプロ生活”の苦しみ
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byKYODO
posted2023/06/25 11:01
1984年、プロ1年目の野中徹博。前年のドラフト会議で阪急に1位指名された右腕を待ち受けていたのは「いばらの道」だった
野手に転向も、わずか1年で戦力外に
3年目は練習生扱いに格下げとなった。オフに肩の手術を受けたが、完治には至らない。二軍の公式戦でも出番はなく、コーチから「一軍のバッティングピッチャーの手伝いに行ってくれ」と言われ、悶々とした日々を過ごしていた。
「正直、どうしていいのかわからなかった。こんなはずじゃなかったのに……」
甲子園を沸かせた怪物の面影は、もうどこにもなかった。そんな時だった。5年目の1988年8月、打撃コーチに呼び出された。
「打者をやってみないか?」
右肩を痛めた時にも野手転向の話はあったが、「投手として勝負したい」と断った経緯があった。しかし、今の自分はあの時と状況が違う。二軍でも登板機会がない、正真正銘の崖っぷちに立たされていた。
「ありがとうございます。打者一本でやってみます」
同年9月から内野手に転向。背番号を18から0に変え、登録名も「野中徹博」から「野中崇博」に変更した。
野手への転向は功を奏した。球団がオリックスに身売りされて迎えた6年目の1989年、野中は2軍の公式戦で3割を超える打率をマークし、来季に向けて手ごたえをつかんでいた。しかし11月末に球団関係者から呼び出され、戦力外通告を受けることになる。
「ドラフト会議も終わって、来年の編成も固まった時期でしたからね。まさか、あのタイミングで戦力外とは……。球団からは『職員として残ってくれ』と言われましたけど、正直、プチンと頭の中で何かが切れる音がしました」
鳴り物入りで入団したかつての怪物右腕は、こうして24歳の若さでプロ野球の世界を去った。
「お前がラーメン屋を出すんだ」
それからは途方に暮れる毎日だった。テレビにプロ野球のニュースが流れると、チャンネルを変えた。野球を見るのも、野球という言葉を聞くのも嫌だった。
年が明けた1990年2月には、貯金も底をつき始めた。「仕事をしないといけない」と配送業の事務職に就いた。1カ月半が過ぎようとした時だった。高校時代の野球部の先輩と会う機会があった。先輩は飲食関係の会社を立ち上げていた。
「テツ(野中の愛称)よ。ウチの会社を伸ばしていきたいから手伝ってくれないか?」
配送業は給料が月14万円で、交通費などの手当もなかった。どうしようかと悩んでいた時期だっただけに、野中は先輩の誘いに飛びついた。
「わかりました。やらせてください」
しかしいざ仕事を始めてみると、その内容は野中の想像とは180度違っていた。