アスリート万事塞翁が馬BACK NUMBER
ドラフト1位指名から7年、野中徹博は中華料理屋で「ラーメンのダシ」をとっていた…甲子園の英雄が阪急で味わった“一度目のプロ生活”の苦しみ
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byKYODO
posted2023/06/25 11:01
1984年、プロ1年目の野中徹博。前年のドラフト会議で阪急に1位指名された右腕を待ち受けていたのは「いばらの道」だった
投球練習中の鈍い音「右肩が吹っ飛んだかと…」
1年目の1984年。野中はオープン戦の途中まで一軍に帯同していたが、開幕前に二軍に降格すると、コーチから突然フォームの改造を厳命された。
「重心を低くして投げるのをやめろ!」
「このままじゃ駄目なんですか?」
「いいから言う通りに投げろ!」
野中は高校時代、軸足の右膝が地面に付く投げ方をしていた。コーチに指示されたフォームでは、腰が入らない「腕投げ」になってしまう。それでも、1年目の新人が逆らうわけにはいかなかった。
指示通りに投げていると、球は遅くなるうえにコントロールも定まらなくなってきた。二軍の公式戦に中4日で投げ、毎日全体練習に参加し、再び中4日で投げる。その繰り返しで体は疲労困憊だった。体をケアするという発想のない時代の弊害をもろに受けて、ついに肩が悲鳴を上げた。
それでも野中は痛みに耐えながら投げ続けた。2年目の1985年5月、一軍でのプロ初先発となったロッテ戦で6回途中2失点と好投する。しかし続く西武戦は、2回途中5失点で降板。野中は当時の苦悩をこう振り返る。
「肩を痛めてからは、自分がイメージした球を全く投げられなくなり、どういう投げ方をしていいのかわからなくなっていた。今思えばあの時、フォーム改造というコーチの指示を突っぱねる強さがあれば……」
その後は中継ぎ要員となった。しかしある日、ブルペンで投球練習をしていたら「ボーン」という鈍い音とともに右肩に異変が生じた。野中は当時の様子を「右肩が吹っ飛んだかと思った」と表現する。右腕がまったく上がらない。鍼治療をしても治る気配はない。野手転向を勧める声もあった。そんな時、肩の手術経験がある先輩と話をする機会があった。
「お前も(手術を)やるか? 今すれば来年間に合うぞ」
野中は迷ったが、投手として勝負したかった。
「やります」
しかし、手術を受ける以前に、体のだるさや食欲不振に悩まされた。病院で検査を受けると、ウイルス性の急性肝炎と診断され、40日あまりの入院生活を強いられた。退院後は自宅療養。体力は著しく低下し、ウォーキングからトレーニングを始めざるを得なかった。