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怪童・中西太90歳で逝く…生前に語っていた自らの豪打伝説 “中西2世”と呼ばれた西武・中村剛也には「素晴らしい野球理論を持っているね」
text by
雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph bySANKEI SHIMBUN
posted2023/05/19 11:01
西鉄ライオンズの主砲として本塁打王5回、打点王3回を獲得した怪童・中西太
「流線型打線」が実現
'53年には豊田泰光や高倉照幸というタイプの異なる天才打者が高卒で入ってきて、三原さんが思い描いていた4番、3番、5番、2番の順に強打者を配する「流線型打線」が実現できる陣容が整ってきた。2番にもパンチ力のある選手を必要としていて、豊田君はうってつけの人材だったんだ。1番・高倉、2番・豊田、3番・中西、4番・大下。プレーボールの声がかかると、この4人ですぐに何点も取っているようなイメージだったな。
入団して最初の年は、まだ前身の西鉄クリッパースと西日本パイレーツの合併球団のユニフォームを着回していた。紙みたいで、滑ったらぺろっぺろに破れそうなやつでね。ところがチームが強くなって優勝するようになると、銀座のテーラーでユニフォームを作ってもらえるようになって、そういう面も次第に変わっていった。
”中西2世”中村剛也とも対談したけど…
その後、福岡から埼玉に移り、西鉄から西武となったライオンズは、他球団から大目標とされるような素晴らしいチームになったね。森祇晶監督が率いていた頃は私も近鉄のコーチとして対戦していたが、勝つためには大変な努力が必要だった。日本の中でも歴代最高のチームじゃなかったかな。
最近はキャンプに行かせてもらったり、始球式をさせてもらったり、西武ライオンズとの繋がりも増えてきた。中村剛也君とも数年前に対談したが、彼は素晴らしい野球理論を持っているね。いい指導者になるよ。先輩として山川(穂高)たち他の選手にも大いに影響を与えているんでしょう。
彼が“中西2世”と呼ばれている記事も見たが、私は'53年に30本打ったら三原さんに「走る方は無理するな」と言われて、それから少し肉がつき始めたんだ。周りは体型だけ見て比較したがるが、最初から中村くんみたいな体格だったわけではないんだけどな(笑)。
中西太Futoshi Nakanishi
1933年4月11日、香川県生まれ。豪快な打撃で高松一高時代から「怪童」と呼ばれる。'52年に西鉄入団。同年、新人王獲得。'62年に選手兼任監督に就任。'69年に引退。本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回。
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