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怪童・中西太90歳で逝く…生前に語っていた自らの豪打伝説 “中西2世”と呼ばれた西武・中村剛也には「素晴らしい野球理論を持っているね」
posted2023/05/19 11:01
text by
雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph by
SANKEI SHIMBUN
Number1005号(2020年6月18日発売)に掲載された[豪打のルーツ回想]怪童中西太「礎は三原脩にあり」を特別に無料公開します。
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ライオンズの礎を作ったのはやはり三原(脩)さんだと思うね。巨人の監督を経て、1951年に新生・西鉄ライオンズの監督になられた。同郷の大先輩である三原さんに直々にスカウトされて、私も翌年には高校を卒業して西鉄に入ることになった。
同じ年の4月には、青バットの天才打者、大スターの大下弘さんがトレードで入団してきた。トレードなんてあまりない時代だったけど、三原さんはそういうことをする監督でね。指揮官というだけでなく、チームの強化や運営にまでその手腕が及んでいたんだ。
当時は鶴岡一人監督率いる南海ホークスが強大なライバルだった。「100万ドルの内野陣」と呼ばれた守備を含め、走攻守の三拍子揃ったチーム。三原さんは南海や巨人といった伝統球団の組織的スタイルを求心力野球と呼び、それに対抗するように、若い人を育てて、管理よりも個性を重視する遠心力の野球を目指した。グラウンドでも私生活でも、選手たちに任せて細かいことは言わない。長所を伸ばす。それが「野武士軍団」と呼ばれるような豪快なイメージにもつながっていったんでしょう。
ただし、みんな無茶苦茶していたわけじゃない。豪快に遊ぶイメージのあった大下さんだって、春の島原キャンプでは、朝、我々がバスでグラウンドに向かうと、一足先に真っ赤な顔をして大汗かいて走っていたもんだ。
1年目は12本だった本塁打が36本に
私も新人王を獲ったけれども、1年目のオフはのんびりしている暇はなかった。シーズンを終えて母校の高松一高に顔を出したら、巨人のショート、守備の要だった平井三郎さんが来ていた。「フトシ、オールスターに出なきゃダメだよ」と励まされて、変化球にも対応できるようにもっと引きつけて打つようにアドバイスをもらった。
引きつけても内角球を詰まらず打つには、下半身から鍛え直してフォームを改造する必要があった。太いバットで大きく構えて、足腰の力をバランスよく使う。そういう中西流のバッティングは、そこから死に物狂いで作り上げたんだ。キャンプやオープン戦では全く結果が出なかったけど、開幕してからはポンポン打ち始めた。1年目は12本だった本塁打が36本まで増えて、3割30本30盗塁。選手としても、のちの指導者としても、大きな転機になったね。