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「人間は、『無視、称賛、非難』の順で試される」野村克也は中学生たちをどう指導したのか? 臨機応変の対応に見る“名将たるゆえん”
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2023/05/05 17:04
ヤクルトを3度の日本一に導いた野村克也。球界を代表する名将としての才覚は、ヤクルト監督就任前の中学野球の指導現場で萌芽していた
狙ったところに、次々と小気味よくボールが投じられていく。
(ずいぶんコントロールのいいピッチャーだなぁ)
たとえスピードがなくても、これほどのコントロールがあれば打者を打ち取ることは十分可能だ。技巧派投手として成績を残すことも可能だろう。
野村は藤森のコントロールを絶賛していた。
港東ムースを選ばなかった井端弘和の“後悔”
藤森同様、「新しいチームの練習会に参加してみようかな?」と考えていたのが、川崎に住んでいた井端弘和だった。
小学校卒業を間近に控えていた井端は中学の野球部に入るか、シニアリーグで本格的に野球を続けるか迷っていたが、友人たちに誘われる形でシニアに進むことを決めた。
同じ地区には「港東ムース」という新しいチームができるということを聞いていた。新しいチームで、一から始めることに魅力を感じたけれど、練習に通うことを考慮に入れて、自宅から近い城南品川シニアに入団した。
電車で通うことよりも、自転車で練習に行くことを優先したからだ。後に井端はこの決断を悔やむことになるのだが、それは後述したい。
藤森がピッチャーとして指名され、井端が港東ムースではなく別のチームのユニフォームを着ていたちょうどその頃、洋平も新天地で奮闘していた。
母の病状は相変わらず思わしくなかったけれど、白球を追いかけている間だけはイヤなことを忘れることができた。「野村の教え」によって、洋平はますます野球に夢中になっていた。
中学生を指導するということ
野村にとっては初めてとなる少年への指導となった。
決して手を上げることはしなかったし、声を荒げたり、選手たちを罵倒したりすることもなかった。また、理不尽な根性論や精神論を振りかざすこともなかった。
かつて、南海時代の恩師である鶴岡一人が実践していた「軍隊野球」を踏襲するつもりは微塵もなかったからだ。
この頃、野村が採ったのは「褒めて伸ばす」という指導法だった。
後のヤクルト、阪神、楽天時代の姿からはまったく想像できないが、可能性に満ちあふれ、これから何者にでもなれる無限のポテンシャルを秘めた少年たちに対して、野村は「褒めて育てる」という選択をした。