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あのベーブ・ルース“日本での伝説”「予告ホームランで場外の建物を壊した」「雨でも傘を片手にプレー」日本野球が米国に全然勝てなかったころ 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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posted2023/04/12 11:03

あのベーブ・ルース“日本での伝説”「予告ホームランで場外の建物を壊した」「雨でも傘を片手にプレー」日本野球が米国に全然勝てなかったころ<Number Web> photograph by Getty Images

1934年の日米野球で来日していたベーブ・ルース。豪快な予告ホームランを放つなど、数々の伝説を残している

 そうした状況で中止に出来るはずもなく、試合は午後1時48分にプレイボール。試合前練習ではベーブ・ルースが観客から借りた唐傘をさして一塁の守備位置についたり、ゲーリックが新聞記者のゴム長靴を借りてグラウンドに出ていったり、サービス精神旺盛なところを見せたという。

伝説の予告ホームラン「場外の瓦を壊した」

 肝心の試合展開は、序盤こそ日本の先発・浜崎真二が好投を見せるも、4回以降打ち込まれて試合は8−1で全米軍の圧勝であった。そんな試合でいちばんの盛り上がりは、7回の全米軍の攻撃。走者2人を置いた場面で打席に立ったベーブ・ルースは、3球見送ってボール3。そこで一旦打席を外し、ベーブ・ルースはライト方面を指さした。そして次の一球を見事に打ち返し、“予告通り”ライトへの大ホームランを放ったのだ。

 つまり、ベーブ・ルースの予告ホームラン。ほんとうにそんなことがあったのか、なかなか伝説の域を出ないところでもある。それに、到津球場はかなり変わっていて、レフトまでは85mなのにライトまでは125mという変型球場だった。ベーブ・ルースがライト方面を指さしたというのが本当ならば、予告ホームランというよりは「あの遠くにあるスタンドに放り込んだらすごいでしょ」くらいのことだったのかもしれない。ちなみに、打球は観客席を遥かに越えて球場外の建物の屋根にあたって瓦を壊した、などという説もある。真偽のほどは別にして、ベーブ・ルースはそれほどの伝説のスーパースターだったのである。

最後に…到津球場はなぜ“消えた”のか?

 ベーブ・ルースがホームランを放った到津球場とはどのような野球場だったのだろうか。そもそも、板櫃川の流れるこの“到津”と呼ばれる一帯は、いまでこそ大都市近郊の住宅地になっているが、球場ができたころはどんなところだったのか。

 実は、到津という地名はなかなかの由緒がある。神功皇后が三韓征伐に赴いた帰路、船が着いたのがこの周辺だった、ということから“到津”と名付けられたとか。ベーブ・ルース以上に伝説のお話ではあるが、平安時代からは宇佐神宮の荘園になっているし、ただの田舎町とは少し違う地域であったことは間違いないようだ。そして、到津を流れる板櫃川沿いは、豊前と筑前というふたつの“国”の境目にもなっていた。奈良時代の藤原広嗣の乱では、広嗣軍と朝廷軍が板櫃川を挟んで対峙するという、戦場にもなった。そして江戸時代にはこのあたりを長崎街道が通り、小倉と長崎方面を結ぶ大動脈の“沿線”になっていたのだ。

 つまり、川もあるし街道もあるし、明治に入って近くに日豊本線も通っているなど交通の便に恵まれた地。そこにちょうどよい空き地があった、ということが球場建設にうってつけだったのだろう。小倉到津球場が使われはじめたのは、1924年のこと。その直前、1918年には九州鉄道管理局野球部(のち国鉄門司鉄道管理局野球部を経てJR九州野球部)が発足。到津球場はそのホームグラウンドとなって、全国鉄道野球大会3連覇など“門鉄野球部”黄金時代を支えている。

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