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あのベーブ・ルース“日本での伝説”「予告ホームランで場外の建物を壊した」「雨でも傘を片手にプレー」日本野球が米国に全然勝てなかったころ

posted2023/04/12 11:03

 
あのベーブ・ルース“日本での伝説”「予告ホームランで場外の建物を壊した」「雨でも傘を片手にプレー」日本野球が米国に全然勝てなかったころ<Number Web> photograph by Getty Images

1934年の日米野球で来日していたベーブ・ルース。豪快な予告ホームランを放つなど、数々の伝説を残している

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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 野球はサッカーなどとは違い、各国のベストメンバー同士が対戦する国際試合にはなかなか恵まれなかった。メジャーリーグや日本のプロ野球といった国内リーグがあまりにも充実していたこと、世界的に見ればマイナースポーツであることなどが、その理由だろうか。それでも、日本の野球が本場・アメリカ相手にどれだけ通用するのか……というアイデアは古くから日本人の間にあった。そして、いくらかは通用するんじゃないか、と思っていた淡い期待が打ち砕かれたのが、89年前、1934年の日米野球であった。

 1934年の日米野球では、元祖・二刀流のベーブ・ルースを筆頭に、ルー・ゲーリックやジミー・フォックスといった並み居るメジャーのスーパースターがうち揃って来日。日本側はまだプロ野球もなかったご時世。沢村栄治や三原修、水原茂といった当代きってのスター選手を集めた選抜メンバーで迎え撃った。このときのメンバーがのちの巨人軍創設のベースになったという。WBCのように真剣勝負ではなく、そもそも力差はあまりにも大きく日本は「15戦全敗」。沢村栄治が好投した静岡での1試合を除けばボロ負けばかりだった。それでも、このときの全日本が侍ジャパンのルーツといってもいいだろう。アメリカにしても、これだけのメンバーが揃うことなどこうした機会でもなければなかったに違いない。

ベーブ・ルースが来た野球場は「はるやま」になっていた

 さて、この1934年の日米野球では、11月から12月にかけて日本各地で全18試合(うち全日本が15試合)が行われている。メインの会場は神宮球場、次いで名古屋の鳴海球場や甲子園球場など、当時の日本を代表する野球場が舞台になった。が、それだけではなくて、北は北海道、南は九州まで、全国各地、地方行脚もしている。いまや影も形もなくなってしまった地方の野球場に、日米のスターが勢揃い、ということがあったのだ。

 そこで、せっかくのWBCの盛り上がりに合わせて、そんな地方球場の跡地を訪れた。そのひとつが、第15戦が行われた小倉到津球場である。小倉は新幹線も停まる北九州の小倉、到津は“いとうづ”と読む。小倉の中心市街地からちょっと外れた、住宅地の中の野球場であった。

 到津球場の跡地にいちばん近い駅は南小倉駅だ。南小倉駅のすぐ北側にはJR九州小倉総合車両センターという大きな鉄道車両工場があるので、鉄道ファンにはそれなりに名の知られた駅かもしれない。が、ほとんどの人にとっては、聞いたこともない駅だろう。小倉駅からは日豊本線でふたつ、ものの10分もかからない、町中の駅である。

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