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「これで千代の富士も終わりか…」伝説の横綱を襲った“人生最悪の出来事”「俺が勝ったら、悪者だな」千代の富士が35歳引退で涙を見せるまで
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byAFLO
posted2023/02/28 17:03
令和になっても、人気が衰えない“伝説の横綱”千代の富士(写真は1987年の1月場所で)
一代年寄とは、功績のとくに大きかった力士に対し、相撲協会から本人1代にかぎり与えられる年寄の資格で、それまでに大鵬と北の湖、このあとには貴乃花の例があるのみである。
千代の富士はその打診があったとき、九重親方からどうするかと訊かれ、一代年寄となって相撲部屋を興しても自分1代でその名前がなくなってしまうのは残念だと答えたという。すると親方は「それなら九重部屋を継いでほしい」と切り出した。それこそが、千代の富士をこの世界に導いた先代の九重親方の意を汲むことになるという。《そこまで言ってもらえたので、私はありがたく九重部屋を継ぐことにしたのである》(『負けてたまるか』)。
九重部屋はこのあと1992年に、北の富士の九重親方が50歳になったのを機に千代の富士が引き継ぎ、亡くなるまで守り続けた。2016年の死後は彼の愛弟子の元大関・千代大海が継承して現在にいたっている。
「体力の限界」35歳、涙の引退
千代の富士は、力士が大型化するなかで、小兵ゆえにケガにも何度となく泣かされながらも、その不利をカバーすべく努力を重ね、ついには横綱に昇り詰めた。しかも、当初は短命横綱と噂されたにもかかわらず、35歳まで務め上げた。
彼以前に大横綱として君臨した大鵬と北の湖はいずれも30代に入り1年ほどで引退している。これに対して千代の富士はむしろ30代で全盛を迎えた。その要因のひとつは、北勝海がどんどん出世して横綱になったことだという。8歳下の弟弟子が「こんな若い者に負けるわけにはいかない」と思わせてくれたおかげで、彼相手の三番稽古にも熱が入り、土俵生命が伸びたというのだ。のちに《北勝海にはいくら感謝してもしきれない。その思いはいまも同じだ》とつづっている(『綱の力』)。
1990年に前人未踏の1000勝を達成したあとには、大鵬の幕内優勝32回の最多記録(当時)の更新が期待された。千代の富士もそれを目標に1991年の春場所を全休したのち夏場所にのぞんだが、一方ですでに体力が限界に達しつつあることを意識していた。その場所の初日で貴花田(のちの横綱・貴乃花)に敗れて世代交代を印象づけ、2日目の板井戦に勝利するも、翌日、貴闘力に負け、その夜に引退を表明するにいたった。
◆◆◆
千代の富士が引退した1991年の大相撲は、各場所ごとに幕内優勝した顔ぶれが違った。しかも、名古屋場所では琴冨士、秋場所では琴錦と、史上初めて2場所連続の平幕優勝となった。
ひるがえって一昨年の秋場所では、白鵬が引退したのと入れ替わるように照ノ富士が新横綱として初優勝、続く九州場所でも大鵬以来約60年ぶりに新横綱からの連覇を果たし、世代交代を思わせた。だが、その照ノ富士も昨年の秋場所を途中休場して以来、九州場所、今年の初場所と全休し、盤石ではなさそうだ。一方で昨年は、場所ごとにまたしても幕内優勝の顔ぶれが変わり、しかも名古屋場所から3場所連続で平幕優勝が続いた。乱世という点では、千代の富士の引退前後と似た状況といえなくもない。
群雄割拠の状況も面白いことは面白いが、全体をリードする存在は相撲界の活性化のためにもやはり必要だろう。千代の富士の引退後、まもなくして曙と貴乃花の時代がやって来たように、白鵬引退後の角界にもそんな存在が現れることを期待したい。
<#1、#2から続く>
千代の富士 貢(ちよのふじ・みつぐ)
1955年6月1日、北海道福島町生まれ。本名・秋元貢。1970年9月初土俵。81年7月に第58代横綱に昇進。優勝回数31回を誇り、88年に戦後最多(当時)となる53連勝を記録。89年に国民栄誉賞を受賞。91年夏場所で引退し、九重親方として多くの関取を育てる。2016年7月31日没