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「俺を変えてくれた」山川穂高が野球人生で一番泣いた日…沖縄の大砲が猛練習を続ける理由「心が折れそうな時は、あの時の光景を思い出した」
text by
花里雄太(スポーツニッポン)Yuta Hanazato
photograph byNanae Suzuki
posted2023/03/08 11:04
侍ジャパンの全体練習後も“居残り練習”を行い、7日の試合で本塁打を打ってみせた沖縄の大砲。愛称“アグー”のパワーヒッターが猛練習を続ける理由とは…
陸上部の顧問だった赤嶺永哲先生に弟子入りを志願。「変わりたいので、メニューをください」と直訴した。
「夜中に幽霊が出る」と噂になるほど…
赤嶺氏はやり投げの選手として、1992年の山形国体でのちのハンマー投げのレジェンド・室伏広治氏(2004年アテネ五輪金メダル)を抑えて優勝した経歴の持ち主。野球部の練習後、陸上部の練習に顔を出すと、山川に課されたのが、20キロの重りを持って体全体を鍛える通称「永哲メニュー」だった。
過酷なトレーニングは学校の警備員が帰宅した後も続いた。わずかな外灯の光を頼りに、50mのタイヤ押し、タイヤ引きを各10本。100m、50mダッシュを計100本。そのほか、縄跳び1000回、ティー打撃500本なども日課とし、トレーニング終了は23時を過ぎることも。「夜中に幽霊が出る」と噂になるほど、来る日も来る日も練習に明け暮れた。この間にバク宙を習得し、バスケットボールのゴールリングをつかめるほどのジャンプ力を得るなど、強靱な肉体と抜群の身体能力、そして精神力も身につけた。
「これ以上練習できない」というほど、限界まで自らを追い込んだものの、最後の夏は決勝で興南に敗戦。甲子園出場の夢は絶たれたが「俺より練習した人はこの世にいないと思うくらい練習した」と晴れやかな表情で高校野球に別れを告げた。
練習して上手くなるのが楽しかった
富士大学時代は、1学年下の後輩・外崎修汰(現西武)が「気づくと、山川さんはずっとバットを振っていた」というほど研鑽を重ねた。時には氷点下まで下がる厳しい寒さの中、夜中にバットを握り、ボロボロの通称「鳩小屋」で夜中の2時まで打ち込んだこともあった。
「高校の経験があるから、練習して上手くなるのが楽しかった」
練習を苦にしない、まさに、努力の天才――。今でも「バットを握っていないと落ち着かない」という山川は、遠い日を思い返し、感謝を口にした。「川田君が俺を変えてくれた」――。山川の座右の銘は、中部商業野球部のモットーでもある「今しか見れない夢だから頑張るだけの価値がある」。あの日流した大粒の涙を胸に、夢の舞台に向けバットを振り続ける。
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