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「俺を変えてくれた」山川穂高が野球人生で一番泣いた日…沖縄の大砲が猛練習を続ける理由「心が折れそうな時は、あの時の光景を思い出した」
posted2023/03/08 11:04
text by
花里雄太(スポーツニッポン)Yuta Hanazato
photograph by
Nanae Suzuki
振り返れば、誰にでも人生を変えた運命の1日があるのではないだろうか。昨年12月、卒業以来16年ぶりに故郷沖縄の母校・城北中学校へと凱旋した西武・山川穂高内野手(31)は後輩たちに、こう語りかけた。
今頑張れば、一生遊んで暮らせる
「中学時代は勉強も全くできなかったし、野球もなんとなく続けた。今頑張れば、一生遊んで暮らせる。こうなりたいという目標を早めに確立させて、一直線に向かう方がいい」
ホームランを放った際に繰り出す代名詞の「どすこいポーズ」に代表されるように、山川はまばゆい光を放つ球界きっての“陽キャラ”だ。3度の本塁打王に輝くなど、今では押しも押されもせぬスター選手だが、日の当たる道を通り続けてきたわけではない。2013年のドラフト同期入団で、4歳下の盟友・森友哉(現オリックス)が大阪桐蔭2年時に春夏連覇を成し遂げたのとは対照的に、野球人生の多くは日陰の道を歩んできた。
お前は必ずホームランバッターになれるから
小学4年で野球を始め、中学時代は硬式のチーム「SOLA沖縄」(現大矢ベースボールクラブ)でプレー。かつて大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)に所属した大久保勝也監督のもと、グラブを磨き忘れたら素手でノックを受け、スパイクの手入れを怠ったら裸足での練習を課されるなど、挨拶、礼儀、道具の大切さを教えられた。厳しい練習の中で何度も掛けられたのが「お前は必ずホームランバッターになれるから」という言葉だった。
だが、その秘めた才能が日の目を見るまでには時間を要した。中部商業では甲子園に出場できず、大学はいわゆる“中央球界”ではない岩手の富士大学へと進んだ。大学日本代表に選出された際には、東京六大学や東都大学リーグの選手に劣等感を抱きながらプレーした。
1000回ぐらい野球を辞めようと思っていた
少しでも歯車が狂っていたら消えていたかもしれない野球人生。そのたびに山川を救ってきたのが大きな放物線だった。