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武豊「ディープインパクトはダートでも強かったと思う」ディープにダイワスカーレット、2頭の名馬が“走らなかった”幻のフェブラリーS計画
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph byTomohiko Hayashi
posted2023/02/18 11:04
日本ダービーを制した時のディープインパクトと武豊
ディープの引退が発表されたのは、凱旋門賞から帰国した翌週、2006年10月11日のことだった。競走馬のローテーションや進退などは、調教師とオーナーサイドで協議して決めるのが普通だが、最終的に決めるのはオーナーである。
この馬に関しても、引退して種牡馬入りさせることを決断したのは金子真人オーナーだった。このとき、金子オーナーは北海道にいて、着地検査中のディープと、管理した池江泰郎調教師(当時)は東京競馬場にいた。
引退発表は、金子オーナーから電話で決定を知らされた池江調教師が、東京競馬場で会見することによって行われた。「報せを受けたときは、ショックでした」と話した池江調教師にとって、寝耳に水だったという。武は、JRAを通じて「来年の凱旋門賞でリベンジしたい気持ちが強かったので、そのチャンスがないのかと思うと、体から力が抜ける感じです」とコメントした。
武豊「ディープはダートでも強かったと思いますよ」
引退直後は、もし翌年も現役をつづけていたらどうだったか、といった話を池江調教師や武には聞きづらかったのだが、年単位の時間が経つと、次第にそうした話もできるようになってきた。
もし2007年も現役をつづけていたら、池江調教師は、最初のターゲットとして3月下旬のドバイミーティングを考えていたという。それを知った筆者が、「参戦するとしたら、芝のドバイシーマクラシックと、ダートのドバイワールドカップのどちらでしたか」と問うと、「ワールドカップ」と即答した。当時はこれが最高賞金額のレースだった。
池江調教師は、ディープが「世界一」であることを、誰の目にもわかる形で証明したい、という気持ちが強かったのだろう。
ドバイワールドカップに向かうとなると、ステップレースとなるのはフェブラリーステークスである。そう武に水を向けると、こう言った。
「フェブラリーステークスを勝てば、その時点でGI7勝の最多記録を更新できましたよね。ダートでも強かったと思いますよ。カール・ルイスは、砂の上を走ったとしても速かったはずでしょう。それと同じです」
追い切りのほとんどはウッドチップコースで行われたのだが、馬なりでものすごい時計を出していた。速かったのは、芝の上だけではなかった。
もしディープがフェブラリーステークスに出走していたら、レース史上最多の入場人員となり、売上げも突出したレコードになっていただろう。