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大相撲PRESSBACK NUMBER
“鋼の肉体”千代の富士の姉が明かす“若きウルフの苦悩”「再会してお互い無言で泣き合って…」「毛布から出てこれなかった初の大ケガ」
text by
齋藤裕Yu Saito
photograph byAFLO
posted2023/02/18 11:02
昨年4月に話題となった千代の富士の「鋼の肉体」。現役当時を知らない世代も写真や映像などからファンとなるケースが続出している
周りを見ると身体が大きいしね。自分だってやる気もないのに、なんでこんなとこに来たんだろう……みたいな。とにかくまあ学校卒業するまであっちの中学の手続きしてもらったし、義務教育だし。学校にとりあえず行って卒業したら地元に戻ってくる……そう思い描いていたと思いますよ。
――電話か手紙で実家とのやりとりはあったんですか?
手紙のほうが多かったですね。父親が筆まめでしたから。でも後々になってからですけど、頻繁に手紙やるから、「あんまり手紙も書かないでくれ。里心がつくから」って部屋の方から言われてしまって。
上野か銀座か、九重部屋に近い方を選んだ
――中学3年の1970年11月場所で序ノ口、翌年1月の初場所では「千代の富士」となり、中学卒業までの3場所で勝ち越しを続けました。それでも本人は実家に帰ろうとしたそうですね?
本人が高校に行きたいってごねたみたいで。本人は勝っても相撲に興味ないから、もう帰るという感じでね、電話で話してて、もう本人も帰りたくて必死なのが伝わってきましたよ。でも、親は口出さないでくれって言われて。本人は部屋のほうで説得されて、東京の高校(明治大学付属中野高校)に行ったんですよね。
――その後、負け越しも経験し苦労しました。当時高校生の千代の富士関の相談相手になったのがお姉さんだったとか。どうして東京にいたんですか?
私が高校を卒業後、松坂屋で働き始めたんです。当時札幌に松坂屋ができるということで、北海道の人間を多く取ったんですよ。入社後は東京に勤務し、経験を積むことになりました。「上野か銀座どちらがいいですか」と言われて、当時、浅草寺の裏にあった九重部屋が近い上野を選びました。親戚の家も鳥越神社の近くにあったので、そこに住みながら通勤することになりました。
何も言わないでお互いに、ぼろっぼろ涙が出て…
――東京で改めて再会した時のことを覚えていますか?