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「1・4」追悼大会でアントニオ猪木の闘魂を継承するのは誰なのか? 32年前、東京ドームで「1、2、3、ダーッ!」が生まれた日 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2022/10/13 11:04

「1・4」追悼大会でアントニオ猪木の闘魂を継承するのは誰なのか? 32年前、東京ドームで「1、2、3、ダーッ!」が生まれた日<Number Web> photograph by Essei Hara

1990年2月10日の東京ドーム大会。アントニオ猪木の「ダーッ!」が「1、2、3、ダーッ!」に進化した瞬間

 オカダは猪木と自分、それぞれの顔とベルト姿とファイト写真入りの黒いTシャツを着ていた。「INTERNATIONAL WRESTLING GRAN PRIX DREAM MATCH ANTONIO INOKI vs KAZUCHIKA OKADA」という文字がある。背中側はモノクロームで、2人がガウン姿で並んで歩いているような写真が見えた。

 これはオカダが夢見た試合なのかもしれない。オカダは猪木を少ししか知らない。だから、余計に憧れを抱いているのかもしれない。

本当の意味で「猪木のいない時代」に

 私が少し前「IWGP」という言葉を口にしたら、猪木さんは「まだ、やっているのか」と笑ったが、まんざらでもないような表情を浮かべていた。

 30年以上も前だが、1989年の政界進出後、1990年代の猪木はほとんどリングに上がらなくなった。「猪木のいない新日本プロレス」を感じて、私は当時「猪木のいない時代」と書いた。

『G1 CLIMAX』が始まったころに作った新日本プロレス写真集『THE BATTLE OF 21st』に、猪木の姿は1枚もない。猪木さんは「3バカ」と呼んでいたが、武藤敬司、橋本真也、蝶野正洋らが中心になっていった。

 2度目に「猪木のいない時代」を実感したのは1998年に猪木が引退した後だった。もちろん、リングでファイトをすることはなくなった。だが、それでも「猪木はいた」。

 猪木さんは試合場にも姿を見せてエネルギーを放出していた。私は会いたくなればいつでも猪木さんに会いに行けた。だが、ついにという思いがある。もう、会いに行くことがかなわないのだから。

 本当に「猪木のいない時代」という現実を突きつけられるのは、2023年1月4日の東京ドームの後になるのだろうと思う。

 超満員が好きだった猪木さんは、東京ドームの多くの観客から「1、2、3、ダーッ!」で見送られることに、きっと天国から笑みを浮かべるだろう。もし、観客が少なかったら「もっとちゃんと入れろよ」と怒るかもしれない。

【次ページ】 1972年でも2022年でも、プロレスは変わらない

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