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競馬PRESSBACK NUMBER
「お前はユタカ・タケじゃない!」なぜ競馬学校の教官は“長手綱”にブチ切れたのか…武豊に憧れた元騎手見習いの芸人が明かすオーストラリア時代
text by
松下慎平Shimpei Matsushita
photograph byShimpei Matsushita/Sports Graphic Number
posted2022/08/20 11:00
元騎手見習いのお笑い芸人・松下慎平がオーストラリアの競馬学校で授与されたトロフィー。「武豊のようになりたい」という思いは真剣そのものだった
「武豊になれなかった男」が選んだ次なる道は…
しかし、学校での生活が進むにつれて騎手志望の生徒は減っていった。学校の謳い文句としては「誰でも騎手になれる」ということであったが、もちろんそんなわけはない。可能性は与えられるが、全員が夢を実現できるわけではないことは誰もが理解していた。競馬のリアルな部分に触れ心が折れる生徒や、英語や異国での生活の壁にぶつかる生徒、騎乗以外の仕事に楽しみを見出す生徒もいた。ムキムキのポニーに跨っていた背の大きな同窓生は、セリの現場での仕事を学ぶため嬉々としてメルボルンへと旅立って行った。
そんな中で私が騎手になるためのレールの上で踏みとどまることができたのは、騎乗技術というよりは英語でのコミュニケーションが他の生徒より少しできた、ということが大きかったように思う。その頃には現実を理解し、無我夢中で教官の指示に従い短い手綱で馬に跨っていたが、学校の目が届かない研修先の牧場でふと思い出して長手綱で乗ってみたことがあった。それを見た牧場長に「ユタカ・タケが乗っているかと思ったよ」と言われた。もちろんお世辞であろうが、その言葉は約20年経った今でも私の大切な宝物である。
豪州で騎手になるためには、トラックライダーの免許を取得しトライアルレースという模擬レースを数十回こなす必要がある。私の騎手への道が途切れたのはトライアルレースを何度かこなし、もう少しで夢が叶うというタイミングであった。元々、膝に古傷を抱えていたのだが、たった一度の落馬がそれをひどく悪化させた。現地の医者には「完治するのは難しいが、騙し騙しなら乗れないことはない」と言われ、私は考えに考えた。これまでの人生であのときほど自分の将来について悩んだことはないし、おそらくこれからの人生でもないだろう。騎手になれたとしてそこから約30年、その膝の痛みと向き合っていく覚悟が、どれだけ考えても私には持てなかった。
アイム ノット ユタカ・タケ。残酷な現実がそこにあった。
届きそうだった夢が目前で露と消えた現実を受け入れられない私は帰国後、子供の頃からのもう一つの夢を追い始める。それが芸人であった。さらに、大御所芸人が武騎手と交友があるということをテレビで度々見かけていたのも私の背中を押した。芸の道の上でなら、彼と出会えるかもしれない。武豊に会いたい。それは騎手という職業を諦めても諦められない願いであった。とはいえ、芸人になる上で騎手の道の二の舞を演じるわけにはいかない。芸人になるだけではだめだ。売れなければ。そのためにはオーストラリアで見習い騎手だったという経歴だけでは心許ない。
そして私は決断する。
まずは東大に入ろう。
その先にきっと「彼」はいるはずだから。
<後編へ続く>