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“初の女性棋士”を目指す里見香奈女流五冠につながる潮流… 女流棋界発足の功労者は大山康晴十五世名人だった〈女流棋士48年の歴史〉
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/08/16 11:02
プロ編入試験への挑戦を決め、会見に臨んだ際の里見香奈女流五冠
プロ公式戦での実績を鑑みれば――プロ編入試験で合格の可能性は高いと、私は思っている。ただ「棋士」という重い肩書がかかっているので、通常の対局よりもプレッシャーを感じるだろう。
里見と対戦する棋士にとって、プロ編入試験はプロ公式戦に当たらない。しかし、どんな状況であっても、盤に向かえば最善を尽くして勝ちにいくのが、棋士の本分である。
米長邦雄永世棋聖が生前に提唱した「相手の大事な一戦こそ全力で戦え」という《米長哲学》は、現代の若い棋士にも浸透している。
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里見女流五冠が徳田四段と対戦するプロ編入試験の1戦目は、8月18日に行われる。この初戦に勝てば、合格の確率はぐっと高くなる。ちなみに、今泉五段と折田四段は初戦に勝ち、いずれも3勝1敗で合格した。
女流棋士の草分け的存在って誰?
女流棋界の歴史について、ざっと振り返ってみる。
女流棋士の草分けは、蛸島彰子女流六段である。小学5年で将棋を覚え、1961(昭和36)年に奨励会に15歳・7級で入会した。初の女性奨励会員だった。日本将棋連盟は紅一点の蛸島に、5勝5敗で昇級という特例を設けた(正規は6連勝か9勝3敗で昇級)。
1966年3月、私こと田丸昇3級(当時15)は蛸島1級と香落ちの手合いで対戦した。率直に言って、強さをあまり感じなかったが、指し方が丁寧だった。熱戦の末に私が敗れた。
蛸島はまもなく初段に昇段。そして、結婚を機に同年に奨励会を退会した。以後は将棋の普及活動に努めた。
1974年に女流棋士制度が発足し、報知新聞社が女流名人位戦を創設した。蛸島と女流アマ棋戦で活躍していた計6人が女流棋士と認定された。
写真は、その女流棋士たち。左から、関根紀代子二段、蛸島三段、多田佳子二段、寺下紀子初段、村山幸子初段、山下カズ子初段。
大山十五世名人「将棋もスポーツのように……」
将棋連盟の副会長だった大山康晴十五世名人は「将棋もスポーツのように、男と女でジャンルを分けるべきだ」とかねてから提唱していて、報知新聞はプロ野球のオフの時期にレジャー面を華やかで明るい紙面にしたい編集方針だった。そんな両者の考えが一致した。
私は当時、連盟事務局の一員として女流棋士制度の立ち上げに関わり、対局の設定や広報を担当した。女流棋士の対局光景は華やかだったが、観戦したある棋士は鬼気迫る雰囲気に驚いたという。第1期女流プロ名人位戦(現・女流名人戦)は、蛸島が優勝した。以後も3連覇した。
女流棋界は着々と発展していき、女流棋士と女流棋戦は増えていった。