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「無謀な根性論→ホメて伸ばす」に変わった口論… “鹿実の名将・松澤先生”の家族が語る思い出「遠藤(保仁)くんや松井(大輔)くんの親は」
text by
粕川哲男Tetsuo Kasukawa
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2022/08/11 11:01
鹿児島実業時代の松井大輔。その後に日本代表となった彼らが“松澤先生”とともに送った青春時代とは?
それまで顔を歪め、歯を食いしばって汗を流していた子供たちは、気づけば練習中も笑顔を見せながらボールを蹴るようになっていた。
もちろん、厳しさを継続する場面もあった。例えば、部のルールを破った者に対してはレギュラーであろうと容赦しなかった。選手権の県予選を控えたある休日、部員の2人が練習前に街へ遊びに出掛け、集合時間に遅れた。
小走りにやってきた2人に対して、松澤先生は「帰れ」と命じ練習参加を許さなかった。その夜、2人が自宅を訪れて土下座しても許さず、「まずはチームのみんなに謝れ。みんなが許してくれたら練習に参加してもいい」と伝えた。チームの中心的な存在だった2人は自主的に頭を丸め、涙を流しながら仲間たちに謝罪したという。
松澤先生の甘えを許さない姿勢と、カルロスコーチによる合理的指導により、チームは緊張感を保ちつつ一体感を深め、全国でも勝てるチームへと成長していった。
選手権初優勝は1995年度のこと。「初戦敗退も覚悟した」(松澤先生)帝京との2回戦に2-1で競り勝つと、エースの平瀬智行などの活躍もあり鵬翔、室蘭大谷、初芝橋本を退け、静岡学園との両校優勝ながら日本一へと辿り着いた。
岩下は普段は勉強もできる。でもサッカーになると
2005年1月10日、松澤先生が鹿実を指導して41年目の冬には、悲願の単独優勝を成し遂げた。キャプテンの岩下敬輔、赤尾公、栫大嗣、山下真太郎などが中心となった守りのチームは、修徳、北海、多々良学園(現・高川学園)を相手にしぶとく勝ち上がり、準決勝で国見に快勝。市立船橋とのPK戦となったが、渡邊辰巳が全国制覇を引き寄せた。
当時を振り返り、尚明さんがニヤリと笑う。
「岩下は、親父の指導者人生で一番コントロールが難しい選手だったかもしれませんね。普段は勉強もできるし、周りに気を遣えるし、顔だっていい。それが、サッカーになると豹変するんです。頭に血がのぼりやすく、審判にも目をつけられていたんですよ。
サッカーのときは先輩だけでなく親父にも遠慮がなく、よく言い合いになっていました。ただ、親父も『あいつは、必要な選手なんだよ』と認めていたので、最終学年の選手権はコーチ陣が『相手の挑発に乗るな』と言い続けて日本一になりました。特徴ある選手同士を組み合わせて乗せるやり方は、親父が得意な指導法だったと思います」