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KKコンビのPLに阻まれた夏春夏3連覇「3回戦、死球後の記憶はない」「あと3日あれば、おれたち池田の…」水野雄仁が語る“最後の夏”
posted2022/08/19 11:00

池田のエースとして君臨した水野雄仁
text by

赤坂英一Eiichi Akasaka
photograph by
Katsuro Okazawa
ちょうど35年前の1983年、池田高校の水野雄仁は高校球界最高の投手として甲子園の土を踏んだ。前年の'82年夏に続いて池田が優勝したこの年の春、「4番・投手」で選抜大会の全5試合、45回を投げ抜き、失点2、自責点0。ひとりだけで防御率0.00を記録した先発投手は過去3人、夏の選手権と合わせても5人しかおらず、水野を最後に生まれていない。
それほどの絶対のエースと3年間バッテリーを組んだのが捕手の井上知己である。初めてブルペンで水野の真っ直ぐを受けたときの衝撃を、井上はこう表現した。
「1球目はスピードガンで123kmに過ぎなかった。先輩の畠山(準)さんに比べると、球速はまだまだでした。ただ、その球が手元でホップするんです。あんなすごい球を投げられるのは水野だけだったな」
決して素質と強気だけの投手ではない。'82年夏に全国制覇した畠山が去ったあと、エースの座を受け継いだ水野がひとり黙々と走り込んでいた姿を、井上は覚えている。
「きっと、畠山さんに負けたくなかったんでしょう。水野が主戦になったら甲子園で優勝できなかったと言われたくないから」
異様な雰囲気で、気の休まるときがなかった
足腰を鍛えたおかげでスピードも140km台後半まで上がる。井上がマスク越しに見る打者のバットは、ホップする白球の下で面白いように空を切った。水野が右腕をややサイドに下げて投げるスライダー、1~2球しか使わないフォークを混ぜると、バットの芯で捉えられる高校生はひとりもいなかった。'83年の春までは。
池田に史上初の偉業、甲子園での3連覇がかかっていたこの年の夏、「調子はよくなかった」と、水野自身が打ち明ける。
「右脇腹を痛めてたんだ。夏春連覇のあと、すごい騒ぎになったじゃない。週末のたびに招待試合で全国を回って、疲れが溜まってた。取材も地元だけじゃなく、東京からもマスコミが来てたしね。いつも異様な雰囲気で、気の休まるときがなかった」
そう思った途端、もう水野の球に対応できなくなった
だからか、1回戦の太田工業戦では甲子園で初の自責点1を許している。試合は8-1で圧勝したものの、水野は監督の蔦文也に「気合を入れんか!」と一喝された。