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「“沖縄、最弱”と言われても仕方ない」RIZINでの地元勢惨敗に砂辺光久も嘆き… それでも“具志堅用高から続く格闘技熱”は冷めず
text by
布施鋼治Koji Fuse
photograph byRIZIN FF Susumu Nagao
posted2022/07/11 17:00
7月2日の『RIZIN.36』。“沖縄の総大将”として第11試合に登場した砂辺光久だったが、中務修良に1R1分40秒でTKO負けを喫した
具志堅用高という圧倒的なカリスマの存在
リングやケージスポーツの沖縄の歴史を繙けば、プロボクシングに行き着く。中でも沖縄県出身者として初めて世界チャンピオンになった具志堅用高は神がかり的な人気を誇った。
今年5月15日、沖縄県は本土復帰50周年を迎えたが、1976年10月から81年3月まで世界チャンピオンに君臨した具志堅はまさにその象徴だった。その姿は戦後、外国人レスラーを空手チョップでバッタバッタとなぎ倒した力道山と重なり合う。
「ウチナンチュでも世界で通用する」
具志堅が防衛回数を重ねれば重ねるほど、沖縄のイメージは好転した。当時、沖縄が他の都道府県に誇れるスポーツはボクシングと高校野球しかなかった。
王座を明け渡した14回目の防衛戦を、具志堅は1981年3月に地元沖縄凱旋試合として具志川市(現うるま市)で行なっている。それから41年の歳月が流れた。結局、具志堅は世界タイトルマッチを地元で1回しかできなかったが、13度の世界王座防衛記録はいまだ国内で破られていない。
昨年、沖縄出身者として初めてレスリングで五輪のメダルを獲得した屋比久翔平(男子グレコローマン77kg級・銅メダル)の父で、沖縄にレスリングを普及させた屋比久保さん(現・北部農林高校教諭)は「具志堅さんのときは沖縄に(スポーツ界のヒーローが)誰もいない状況だった」と証言する。
「ウチは田舎だったけど、路線バスの運転手がバス停近くにバスを停め、近隣の家で具志堅さんの試合を見ていたくらい。具志堅さんの世界タイトルマッチの視聴率は、いまでも沖縄で1位じゃないですかね」
いまバスの運転手がそんなことをしたらクビになりかねないが、当時の沖縄の人々にとっては、それだけ具志堅の試合が気になって仕方なかったのだろう。ボクシングやスポーツの枠を超えた、社会的な一大ムーブメントだったのだ。
このRIZIN沖縄大会の8日前に行なわれたRISEの東京大会でAKARIとの王座決定戦を制し、第2代RISEミニフライ級王者となったerika(名前の後ろにハートマーク)は、生まれも育ちも沖縄。現在は那覇でキックボクサーとしての活動の傍ら老人介護施設でも働く。彼女は施設にいる高齢者と接することで、具志堅の凄さをまざまざと感じている。
「私がキックをやっているという話をしたら、それを無視して前のめりになりながら“昔、試合を見に行ったよ”と語り出す。みんな“あれはデージだったよ。いまも思い出すさ”と目を輝かせています」
erikaの場合、主戦場とするRISEにRIZINとの太いパイプがあるので、条件さえ合えばRIZIN沖縄大会に出場することは十分可能だ。もし第3弾大会があれば、大きな戦力になるのではないか。