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大仁田厚と流血激闘、TVジョッキーでバット折り“空手着のプロレスラー”青柳館長、65歳で逝く…あの「アシャシャシャシャ~」を忘れない
posted2022/07/09 06:01
text by
高木圭介Keisuke Takagi
photograph by
Essei Hara
「館長」のニックネームで、平成プロレス界を席巻した青柳政司さん(以下、青柳館長)の訃報が入ってきた。
享年65。7年前(2015年)に交通事故で瀕死の重傷を負うも、不屈の闘志で元気に復活されていたと聞いていた矢先の訃報だった。
そのニックネームは、プロレスと関わることになる10年前、1979(昭和54)年に23歳の若さで開いた「国際空手拳法連盟 誠心会館」の館長を務めていたことによる。そんな立場でプロレスラーと戦いつつ、いつしかプロレスと空手の両輪で活動するようになっていた不思議なキャリアを誇る人なのだ。
「格闘技の祭典」大仁田との激闘
プロレスファンに、その名を知られるようになったのは89(平成元)年7月2日に後楽園ホールで開催された伝説のイベント「格闘技の祭典」だった。
この大会のメーンイベントで大仁田厚と対戦した館長は大仁田のイス攻撃や頭突きによって大流血しつつの大激闘(結果は大仁田の反則負け)。3カ月後の10月6日には、その遺恨カードをメーンに据える形で、大仁田がFMWを旗揚げ(愛知・露橋スポーツセンター)している。
「格闘技の祭典」では、プロレス陣営のセコンドに、後の邪道&外道やスペル・デルフィン、ウルトラマン・ロビンらがおり、対する空手陣営には正道会館所属で後にK-1で大活躍する佐竹雅昭や角田信朗らの姿も見える。平成格闘技界を席巻する人材が、ブレイク前に一堂に集っていた。
「プロレスへの刺客」としてファンに知られることとなった青柳館長だったが、空手界では以前より、かなりその名を知られた存在だった。
78年には極真空手主催の「第10回オープントーナメント 全日本空手道選手権大会」で他流派ながらベスト16入り。前後する形で、極真空手の機関誌『月刊パワー空手』においても、他流派ながら高重量のウエイトトレーニングで徹底的に肉体を鍛える異色の空手家として紹介されたりしていた。