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「植田さん、日本のバレーは30年遅れています」“涙の謝罪”から10年、サラリーマンを経験した元代表監督・植田辰哉が“塾”を開講したワケ
text by
田中夕子Yuko Tanaka
photograph byToshiya Kondo
posted2022/07/08 17:00
2005年に男子代表監督に就任し、北京大会では16年ぶりの五輪出場に導いた植田辰哉。現在は母校の大商大で教授、そしてバレーボール部の総監督を務める
植田が代表監督に就任したのは2005年。自身が主将として出場した1992年のバルセロナ五輪を最後に、男子日本代表はアテネ五輪まで実に12年もの間、五輪出場を逃してきた。
危機的状況を本気で変えるためには、嫌われても厳しさを貫くしかない。練習時だけでなく私生活から徹底して選手を管理し、「海外と渡り合うフィジカルがなければ戦えない」と、特にこだわったのが、身体づくりの土台となる食事とウェイトトレーニング。ストレングスコーチと専属の管理栄養士をナショナルチームのスタッフとしてそれぞれ迎え入れた。
かつての伝統からバレーボールの日本代表はボール練習が中心で、ウェイトトレーニングに時間が割かれることは少なかった。だが植田は週の半分はボール練習と並行してトレーニングも行い、食事も栄養素に過不足がないようデータに基づき徹底的に管理した。
「それぞれがプロですから、結果がすべて。選手はしんどいですよ。だから時には息抜きも必要だろうと、大会で賞金が入るとそのお金で焼肉屋や寿司屋を貸し切りにして『今日はおいしいものを食べよう』と振る舞う。当然選手はビールぐらい飲みたいじゃないですか。一応栄養士さんに『今日ぐらいいいかな?』と聞くんですが、答えは決まって『ダメです』と。荻野(正二)や(山村)宏太に『焼肉でビールを飲めないなんて、拷問ですよ』と何度も言われましたね(笑)」
成果は、数値や結果に表れた。個々に目を向ければ最高到達点や筋量が軒並み上がり、チームとしても06年に日本で開催された世界選手権では24年ぶりのベスト8進出を果たした。そして08年、最終予選でアジア1位となった日本は16年ぶりの五輪出場を決め、試合直後に大の字で床に横たわる植田の姿と共に、男子バレー復活を強く印象付けた。
だが、残念ながら当時の日本代表は、そこがピークでもあった。
北京五輪では1勝も挙げられぬままグループリーグ敗退。日本バレーボール協会は植田の続投を決め、10年の世界選手権に出場を果たすも2次リーグ敗退。12年のロンドン五輪出場も逃し、13年3月に監督を退いた。
学校に頭を下げてお願いする
伝統、残した戦績は素晴らしいが、過去から学ぶばかりでは追いつかないほどに世界は進化していた。今、変わらなければ本格的に日本は取り残される。監督として世界と対峙してきたからこそ、諸外国との違いを嫌というほど見せつけられ、焦燥感に駆られていた。
「代表監督になって痛感したのは、立場の弱さでした。本来ならば、国の“代表”であるチームのために、高校、大学、Vリーグ……カテゴリーは違っても一丸となって取り組むべきなのに日本は逆です。むしろVリーグのチームは高校や大学の先生に頭を下げて、選手を下さいとお願いする。結果的にどうなるかと言えば、本来頂点になるはずの代表、Vリーグが最も低く、学校に権限が集中してしまうため、それぞれがバラバラで強化にも育成にもつながらないんです。
この仕組みから変えなければならない、と代表監督をやめても、せめて3年間、僕は必死でやろうと思っていましたが、求められなかった。このままバレーボール界にしがみついていていいのか、と思った時、それじゃダメだ、と立ち止まってみると怖さしかなかった。すぐ新日鐵の本社へ行き、上司に『部署はどこでも構いません。バレー界の常識だけでなく、社会の常識を知らなければ僕はダメになります』と直談判しました」