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慶応大・柳田将洋、中央大・石川祐希…あの“NEXT4”はなぜ誕生した?「当時は男子バレーが話題にならなかった」逆風の時代に仕掛けた“人気戦略”
posted2022/07/08 17:01
text by
田中夕子Yuko Tanaka
photograph by
Shingo Ito/AFLO SPORT
鳥肌が立つほどの光景を、南部正司は今でもはっきりと覚えている。
「(2015年ワールドカップの)広島大会が始まったばかりの頃は、チケットもまだ売れ残っていて、空席が目立たぬように体育館の一部には黒布も張られていたんです。それが2戦目、3戦目と試合を重ねるごとにお客さんが入って、途中で『大阪大会は完売ですよ』と。チームの好成績はもちろんですが、お客さんが入った超満員の体育館、あの景色は格別でした」
男子バレーは弱いし、面白くない。そんな声を幾度も聞くたび「今に見ていろ」と悔しさを噛みしめてきた。
そして今、世間の声はどうか。
日本の男子バレー、面白いじゃない。
今につながる新たなスタート。代表監督にして、陰の仕掛け人が南部だった。
初の外国人監督ゲーリー・サトウを招聘
現役引退後、南部は07年から14年5月までV・プレミアリーグ(現Vリーグ)のパナソニックを率いた。ブラジルを始めとする海外とのネットワークを活かし、元ブラジル代表のダンチ・アマラウやフェリペ・フォンテレスといったトップ選手を招聘し、Vリーグや天皇杯を制するなど、国内での実績は確かに抜群だった。
日本国内で当時もっとも結果を出していた監督が、代表監督に就任する。その流れだけを見ればごく自然なようにも見えるが、当時はお世辞にも歓迎ムードとは言えず、むしろ逆風からのスタートでもあった。
遡れば12年のロンドン五輪出場を逃した翌年、日本バレーボール協会が史上初めての外国人監督として、アメリカ人のゲーリー・サトウ氏を招聘したところにつながっていく。
植田辰哉・前監督は08年には男子バレー日本代表を16年ぶりにの五輪出場へ導いたが、ロンドン五輪予選で敗れた時点で辞意を表明していた。だが後任人事が進まず、4年後のリオデジャネイロ五輪へ向けてサトウ監督の就任が内定したのは、翌年13年2月のこと。来日から新チームの発足、選手選考までの時間すらないままスタートしたこともあり、就任時は日本バレーボール協会も「最初は結果が出ないかもしれないが、責任を持ってバックアップしたい」と表明していた。
だが、事態は一変する。