ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
《命日》稀代の名レスラー・三沢光晴を生んだ「2代目タイガーマスク“苦闘の6年間”」 22歳の若手が全日本プロレスに黄金期をもたらすまで
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2022/06/13 17:30
1984年の蔵前大会にてお披露目となった2代目タイガーマスク。覆面時代の苦闘の経験が、後の三沢光晴の活躍を生んだ
鶴田・天龍の“やられ役”に…2代目タイガーの苦闘
それでも、短期間でできるかぎりの準備をして迎えたデビュー当日。リングサイドで“生みの親”である梶原一騎が見守る中、2代目タイガーマスクこと三沢は極度の緊張をはねのけ、メキシコ時代のライバルであるラ・フィエラを相手に大技トペ・コンヒーロを爆発させ、最後はタイガースープレックス’84で勝利。無事、初陣を飾った。
デビュー戦としては十分に合格点の内容で、関係者の評判も上々。しかし、客席からは試合中に冷やかしの「三沢コール」が起こるなど、“2代目”がファンに受け入れられたとは言い難いことも事実だった。
佐山タイガーの印象があまりにも鮮烈だったため、ファンはなかなか「佐山ではない」タイガーマスクを認めなかった。また、三沢は佐山よりひと回り以上身体が大きかったため、どうしても同じような技を使った場合、初代に比べてやや動きが鈍く見えてしまう。それもあって2代目タイガーマスクは、初代のような爆発的人気を得ることはできなかったのだ。
その後、2代目タイガーはヘビー級に転向。’88年5月に結婚を機に正体を明かし、そこからは佐山タイガーの動きにとらわれない吹っ切れた試合を見せていたが、苦闘は続いた。
ヘビー級になってからの2代目タイガーのポジションは、ジャンボ鶴田、天龍源一郎のツートップに続く第2グループ。鶴田や天龍とタッグを組んだ際は、どうしてもタイガーが“やられ役”にならざるを得ない。虎のマスクをかぶったヒーローでありながら、いつもやられる姿を見せていた2代目タイガーは、ジュニア時代以上になかなかファンの支持を得ることが難しかったのである。
マスクを脱いだ三沢光晴が活躍できた理由
そんなタイガーに大きな転機が訪れる。1990年春、全日本プロレスは新団体SWS設立にともなう天龍源一郎をはじめとしたレスラーの大量離脱により、存亡の危機に見舞われる。そこで立ち上がったのが、長年苦闘を続けていた2代目タイガーマスクだった。
タイガーは’90年5月14日、東京体育館での試合中にマスクを脱ぎ捨て、以後、素顔の三沢光晴として天龍の穴を埋めるべく奮闘。鶴田やスタン・ハンセンといったスーパーヘビー級に立ち向かっていく三沢の身体を張った闘いは、若いファンのハートをガッチリとつかみ、全日本に90年代の黄金期をもたらしたのだ。
三沢光晴が素顔になってすぐ、鶴田やハンセンらとあれだけの名勝負を展開できたのは、タイガーマスク時代後期、鶴田らのパートナーとしてヘビー級のトップレスラーと闘うキャリアが積めたからであろう。
ヘビー級時代の2代目タイガーは“やられ役”であったかもしれないが、そこで蓄えた技術とトップレスラーとしての気概を素顔になって一気に解放することで、目覚ましい活躍をすることができた。2代目タイガーマスクとしての苦しい6年間は、三沢光晴にとって決して無駄ではなかった。
2代目タイガーマスクは、たしかに初代のような爆発的な人気を得ることはできなかった。しかし三沢光晴という稀代の名レスラーを生む上で欠かせない時代だったのである。
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。