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《命日》稀代の名レスラー・三沢光晴を生んだ「2代目タイガーマスク“苦闘の6年間”」 22歳の若手が全日本プロレスに黄金期をもたらすまで 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/06/13 17:30

《命日》稀代の名レスラー・三沢光晴を生んだ「2代目タイガーマスク“苦闘の6年間”」 22歳の若手が全日本プロレスに黄金期をもたらすまで<Number Web> photograph by AFLO

1984年の蔵前大会にてお披露目となった2代目タイガーマスク。覆面時代の苦闘の経験が、後の三沢光晴の活躍を生んだ

 新日本で絶大な人気を誇っていたタイガーマスクに魅力を感じていた馬場は、’84年2月下旬に都内のホテルで、日本テレビから出向していた当時の全日本プロレス社長・松根光雄を交え、コンチャと極秘会談を行う。しかし、全日参戦の合意には至らなかった。コンチャが要求した条件があまりに高額だったことと、業界外の人間であるコンチャの“背後関係”に懸念を抱いた馬場が、即答せず話を保留したのである。

 こうして一時凍結されたタイガーの全日本参戦だが、4カ月後に話は急変する。’84年6月に全日本は、クーデター未遂事件を機に退社した元新日本の営業部長・大塚直樹が興した興行会社ジャパンプロレスと業務提携を結び、第1弾として8.26田園コロシアム大会を発表。その話し合いを行った際、馬場は佐山タイガーを出場させる案を大塚に持ちかけると、大塚から意外な答えが返ってきた。

 大塚は、馬場からコンチャが提示してきた条件を聞くと、「それは高すぎる。佐山を使わなくても、自前でタイガーマスクを作ったらどうですか?」と提案。大塚はもともと新間寿の腹心であり梶原一騎とも面識があったため、交渉次第で新たなタイガーマスクを誕生させることは可能だと考えたのだ。

 ここから大塚は梶原の自宅に日参し、何度目かの訪問でついに条件付きでOKの返事を引き出すことに成功。そしてその条件を馬場がすべてクリアしたことで、“タイガーマスク”の全日本登場が決定したのである。

22歳の三沢光晴が2代目タイガーマスクになるまで

 ここで2代目タイガーマスクとして白羽の矢が立ったのが、当時22歳の若手だった三沢光晴。馬場はメキシコ修行中だった三沢にすぐさま帰国命令を出し、三沢は’84年7月22日に極秘帰国。デビュー戦は8.26田園コロシアムに決まったことで、準備期間はわずか1カ月。ここからすべてが突貫工事で進められた。

 デビューのプロモーションとして、まず7.31蔵前国技館で2代目タイガーマスクのお披露目が行われたが、あまりにも急な話だったためマスクのサイズは合っておらず、マントは制作が間に合わず、日本テレビの倉庫にあったミス・ユニバースで使用したマントで代用した。初代タイガーマスクがデビュー戦で、あまりにもお粗末なマスクとマントで登場したことは有名な話だが、2代目タイガーマスクの初登場も初代とたいして変わらなかったのである。

 そしてコスチューム以上に問題だったのは、たった1カ月でタイガーマスクの動きを身につけなければならなかったことだ。器械体操経験者でメキシコ修行中だった三沢は、空中殺法は器用にこなしたが、課題となったのはタイガーのもう一つの武器である蹴り技だった。

 佐山タイガーの蹴りは、若手時代からキックボクシングジムで学んだ本格派で、そこにブルース・リー的な要素を加えた佐山独特のもの。三沢も梶原一騎と親交のある士道館空手の添野義二館長に集中特訓を受けたが、ローリングソバットをはじめとした佐山独特の蹴りはなかなかマスターすることができなかった。

【次ページ】 マスクを脱いだ三沢光晴が活躍できた理由

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