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プロペラで顔を切り刻まれ「これがまぶたで、これが目尻かな…」ボートレース界の“不死鳥”植木通彦は大事故のトラウマをどう克服したのか
text by
曹宇鉉Uhyon Cho
photograph bySankei Shimbun
posted2022/05/29 11:00
若手時代に負った大怪我から復活し、“不死鳥”と称された植木通彦。1986年のデビューから2007年の引退まで、ボートレース界で輝かしい実績を残した
そんな折、よりにもよって転覆の現場となった桐生から出場の斡旋が届いた。当然、断りを入れるつもりだったが、たまたま見舞いに来ていた父の「桐生から走ったらどうだ」の一言に背中を押されることになる。
「そのときは父が鬼に見えましたよ(笑)。でも、復帰直後にいきなり好成績を出せるわけでもないですし、お世話になった人たちやご心配をおかけしたファンのみなさんに、無事に走れる姿を見せるのがいいんじゃないかと思ったんです」
関係者も、まさか桐生を復帰戦の舞台に選ぶとは思っていなかったようだ。それでも、まだまだ顔の腫れが残る植木を、驚きとともに歓迎してくれたという。
「周りの目が気になったり、『また転覆するんじゃないか』という不安もありましたけど、レーサーの同僚たちが励ましてくれました。関係者の方も『転覆したところに塩をまいておいで』と(笑)」
「生かされた命で、20年は恩返しをしようと」
周囲のサポートを受けてトラウマを払拭した植木は、この復活の経緯から“不死鳥”と称されるようになる。怪我の後遺症を感じさせることなくめきめきと頭角を現すと、1992年にGIで初優勝。さらに故・飯田加一が開発した「モンキーターン」を本格的に習得した1993年には、最高クラスのSGボートレースクラシックで初優出・初優勝を飾った。
復帰後は順風満帆にトップレーサーへの道を歩んでいた植木だったが、胸裡では“ある決意”を固めていた。
「20年。事故を起こしたときがちょうど20歳だったので、この生かされた命できっかり20年間、ボートレース界に恩返しをしようと決めていたんです。もちろん恩返しをするには活躍しないといけない。20年でやめることがいいとは思いませんが、終わりを決めることで、そこまでは命をかけて全力で走ろう、と」
迎えた1994年、26歳の植木は初の年間賞金王に輝いた。そして翌1995年、年の瀬の住之江で開催された第10回グランプリで、“水上の人間国宝”こと中道善博と「ボートレース史に残る名勝負」を繰り広げることになる。<#2インタビュー後編へ続く>
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