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プロペラで顔を切り刻まれ「これがまぶたで、これが目尻かな…」ボートレース界の“不死鳥”植木通彦は大事故のトラウマをどう克服したのか
text by
曹宇鉉Uhyon Cho
photograph bySankei Shimbun
posted2022/05/29 11:00
若手時代に負った大怪我から復活し、“不死鳥”と称された植木通彦。1986年のデビューから2007年の引退まで、ボートレース界で輝かしい実績を残した
17歳でボートレーサーを目指した切実な理由
「私の場合、『ボートレーサーになりたい!』と思っていたわけではないんですよ。当時、不景気のあおりを受けて父の建設会社の経営が難しくなっていたこともあって、長男として家計を助けたい気持ちでボートに興味を持ったんです。地元の北九州は公営競技が盛んな土地でもありましたから。でも、先生にも両親にも反対されましたね。そんなに簡単な道じゃない、と」
植木がボートレーサーを志したのは高校2年生のころだった。当時は福岡県立小倉商業高校の野球部に所属しており、ポジションはサード。進路について思いつめる様子を見かねた担任の教師からは、「そんなに困っているのなら、自分の家から学校に通ってもいいぞ」と言われたという。
「先生の言葉には心を打たれました。でも、むしろそれで決心がついたんです。やるからには絶対にプロになって成功しなければ、と。昔から根拠のない自信だけはあるんですよ(笑)」
そんな思いが通じたのか、17歳の植木は倍率数十倍という試験を突破し、高校を休学して山梨県の本栖研修所に入所。1年間の厳しい訓練生活を経て、1986年11月にボートレース福岡でデビューを果たした。同年12月には水神祭(初勝利)もマーク。2年目、そして3年目と、経験を重ねるにつれて順調に成績は向上していった。
「だからこそ、『気をつけないといけないぞ』と自分に言い聞かせていたんですけどね。やっぱり、あの怪我には慢心という前兆がありました」
欠損した鼻に頭蓋骨を移植、“事故現場”の桐生で復帰
1989年1月の転覆事故で、植木は顔を75針縫う全治5カ月の重傷を負った。鼻の骨は欠損し、頭蓋骨の一部を移植した。しかし不幸中の幸いで失明は免れ、懸命なリハビリと担当医も「奇跡的」と驚いた回復力によって、3カ月後にはレースへの復帰の目処が立つまでになった。
「身体的に競技を続けられなくなったら諦めますが、自分からやめる、ということは考えませんでした。たくさんの方に迷惑をかけて、運よく生かされた人生です。だからこそ、命をかけてやらないといけない。次は同じ慢心だけはするまい、と誓いました」