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「ぶざまな将棋だけは指したくない」「“114連勝”すれば最短で名人」 引退・桐山清澄74歳と田中寅彦65歳の“戦友”が知るウラ話

posted2022/05/29 17:00

 
「ぶざまな将棋だけは指したくない」「“114連勝”すれば最短で名人」 引退・桐山清澄74歳と田中寅彦65歳の“戦友”が知るウラ話<Number Web> photograph by Kyodo News

桐山清澄九段は現役として最後の対局を終えたのち、弟子の豊島将之九段から花束を受け取り笑顔だった

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田丸昇

田丸昇Noboru Tamaru

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 2022年度に入り、桐山清澄九段(74)、田中寅彦九段(65)、小林健二九段(65)らのベテラン棋士が、引退規定によって現役を退いた。筆者の田丸昇九段(72)は現役時代、この3人の棋士とは公式戦で何局も対戦し、「戦友」のような思い出があるという。今回は、桐山九段、田中九段の棋士人生について記してもらった。【棋士の肩書は当時】

 桐山清澄は1947(昭和22)年に奈良県下市町で生まれた。5歳で将棋を覚えると、めきめきと上達していった。

 1956年に升田幸三王将・九段(当時38)が桐山の地元の旅館を訪れた。その経営者と懇意で、升田夫人の実家が近在という縁があった。升田は将棋の強い子がいると聞き、当時8歳の桐山を呼び出して4枚落ち(上手が飛・角・左右の香を落とす)で指導した。そして、「この子が棋士を志したいなら、内弟子にしてもいい」と母親に言った。

 桐山は、棋士の意味がよく分からなかったが、好きな将棋をたくさん指せるなら楽しいと思った。

 当時は升田の絶頂期だった。1957年に名人を獲得し、史上初の「三冠王」になってタイトルを独占した。

升田幸三が困り果てたほどの「泣く子と高額の電話料」

 桐山は1957年の春に上京し、東京・中野の升田の自宅で内弟子生活を送った。しかし、通学した小学校では関西弁がよく伝わらず、友達を作れずに寂しい思いをした。やがてホームシックにかかった。毎晩のように奈良の実家に長距離電話をかけ、「お母さん、帰りたい」と泣きじゃくった。鬼才と呼ばれた升田も「泣く子と高額の電話料」に困り果て、桐山を数カ月で奈良に帰した。

 ただ桐山の将棋熱は冷めてなかった。

 1958年に縁あって増田敏二六段の弟子となり、関西の奨励会に入って棋士を目指した。師匠は「大マスダ」から「小マスダ」になった。

 当初は奨励会でなかなか勝てなかった。しかし、関西本部に住み込み、雑用を務めながら将棋に打ち込むと、次第に実力をつけて昇進を重ねた。

 1965年の頃の奨励会では、桐山三段は中原誠三段と実力で拮抗し、「東の中原」「西の桐山」と並び称された。両者はほぼ同時期に四段に昇段し、ともに18歳で棋士になった。

41年前の名人戦で中原誠に挑んだが

 将棋と棋士をこよなく愛した作家の山口瞳さんは、文芸誌で連載していた『血涙十番勝負』の企画で、1971年に桐山六段(同23)と飛車落ちで対戦した。その自戦記で、桐山の風貌を次のように表現した。

《桐山は小柄で、顔もちいさい。しかし、目も鼻も唇も大きい。どこかで見た顔だと思う。あっ、そうだ。烏天狗の顔ではないか。これは悪くない。将来は大天狗である。天下を取る顔だ》

【次ページ】 豊島将之との“師弟ダブル快挙”の目前で

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