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「ぶざまな将棋だけは指したくない」「“114連勝”すれば最短で名人」 引退・桐山清澄74歳と田中寅彦65歳の“戦友”が知るウラ話
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph byKyodo News
posted2022/05/29 17:00
桐山清澄九段は現役として最後の対局を終えたのち、弟子の豊島将之九段から花束を受け取り笑顔だった
桐山は名人の獲得を最大の目標として奮闘していた。
しかし、1972年に中原新名人(同24)が誕生し、中原は同期の競争相手から大きな目標という存在になった。1981年に名人戦の挑戦権を初めて得たが、中原名人に1勝4敗で敗退した。山口瞳さんに見込まれた「天下を取る」ことは成らなかった。
私こと田丸九段は30代の頃、王座戦の本戦トーナメントで準決勝に2回進出したが、いずれも桐山に敗れた。後年に「いぶし銀」の異名で呼ばれたように、地道で底力のある指し方に特徴があった。
桐山はタイトル獲得(棋聖・棋王)が合計4期、順位戦でA級在籍が通算14期という実績を挙げた。
豊島将之との“師弟ダブル快挙”の目前で
2017年度の終了時点では、桐山は公式戦で通算1000勝の大記録まで、あと8勝に迫っていた。手塩にかけて育てた愛弟子の豊島将之八段(同26)のタイトル初獲得と、自身の1000勝をダブルで祝う日は、それほど遠くないと思われた。しかし、以後の数年間は成績が極度に落ち、順位戦でC級2組から降級したことで、引退の危機に陥っていた。
そして2022年4月27日。桐山九段は竜王戦で畠山鎮八段との現役最後の対局を迎えた。「ぶざまな将棋だけは指したくない」と語り、精いっぱいに指したが、敗れて56年の現役生活を終えた。
公式戦の通算成績は、996勝(歴代10位)958敗。立派な記録である。
桐山は今後、将棋の普及に努めるとともに、在住する大阪府高槻市の文化スポーツ振興事業団の理事長として、地域の活性化に尽力したいという。
「114連勝」すれば名人になれると本気で考えた
田中寅彦は1957年に大阪府豊中市で生まれた。小学生時代は野球・水泳・スケートなどのスポーツに熱中した。将棋の面白さが分かったのは中学生時代で、同世代の友人に勝ちたくて猛烈に勉強した。やがて、棋士になりたいと思ったが、棋力はまだ低かった。
田中は将棋が強くなるには、東京に行くことだと思い込んだ。中学3年のときに単身で上京し、親戚の家の近くのアパートに住んだ。そして、中原名人の師匠の高柳敏夫八段が開いていた渋谷の「高柳道場」に通って腕を磨いた。1972年には奨励会の入会試験に高柳門下で6級で受けて合格した。
田中は奨励会に入った頃、何連勝すれば最短で名人になれるかと本気で考えたところ、当時の制度で「114連勝」すれば可能と分かった。何事も自信過剰な性格だった。しかし現実には、いきなり4連敗して前途多難のスタートとなった。それでも兄弟子たちに指導され、次第に実力をつけていった。中原名人の自宅に呼ばれて初めて指してもらったとき、高柳門下に入って良かったと思ったという。