“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
「僕は3浪して大学に入ったようなもの」21歳で辞めた高卒Jリーガーが“大手投資銀行の金融マン”になるまで《鹿児島城西では大迫勇也と同じ9番》
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2022/04/29 11:02
春から大手の投資銀行で働く岩元颯オリビエさん。「小さい頃から社会に貢献したいと思っていた」
「小さい頃からずっと社会に貢献したい、社会問題を解決したいという気持ちがあって、それを何で達成するかと考えたときに当時の一番はサッカーでした。でもその一方で、サッカーだけの人間とは思われたくありませんでしたし、プロサッカー選手が終わった後に、どうやって社会貢献、問題解決をしていくかを考えていたので、勉強も一切手を抜きませんでした」
もともと、地元鹿児島の名門私立中学に複数合格を果たすなど当時から秀才で、京都にサッカー留学した際も立命館宇治中学に在籍。付属校に進んだ後も高2からアスリートクラスではなく、学力レベルが一番高い理数科に所属していたという。
「土曜日も授業があったし、寮に帰ってからも勉強をしていました。でもそれは苦ではなかったですね」
高卒プロを決断するときも、実は早稲田大への進学も選択肢にあったという。
「大学経由でプロに行くと世界に挑戦するスタートは遅れるし、もしそこで2、3年でダメになってしまったら、そこから社会人になる道はより厳しくなります。最短ルートでプロにチャレンジすることで、もしダメだった場合に早い段階で見切りがつけられるとも思ったんです。
それに僕の中で大学は『卒業証書をもらいに行く場所』ではなく、『真剣に学びに行く場所』だったんです。せっかく大学に入ったのに、サッカーをやりながらだと単位や教員免許を取ることだけが目標になってしまうのではないかと。僕は器用じゃないので、両方にストイックに打ち込むことはできない。だから、一度サッカーをやり切ってから、大学で学んでも遅くないと思っていました」
大学時代はキャピタリストとして活動
養っていた「先を見る目」は、理想とは違う現実を突きつけられた時にも役立った。現役引退時にはアカデミーのコーチ就任やサッカー関係者がいる企業からの就職オファーもあったというが、すぐに進学を選択することができた。
大学入学後は1年目から授業をフルに受けたしたことで、2年時までに卒業に必要な単位を全て取得。簿記2級、証券外務員一種、証券アナリストCCMAといった資格も得た。土日はアルバイトを詰め込んで学費や生活費も自分で賄ったというのだから驚きだ。
そんな忙しい日々を過ごしながらも、同時に「どの道で自らの想いを体現するか」を模索するため大学教授に懇願し、1年時から企業のインターンに参加。3年時からは「リアルテックファンド」というベンチャーキャピタル(ベンチャー企業やスタートアップ企業など、これから高い成長が予想される未上場企業に対して出資を行う投資会社のこと)のキャピタリストとしても活動した。
「インターンを通して、新たな研究開発技術によって社会の課題を解決していくという領域を知ることができました。その仕事に心を惹かれる自分がいて、彼らのこの技術をもってすればこの課題も解決できるんだ、こんな世界が生まれるんだと凄くワクワクしたんです。僕が次に突き詰める道はここだと決めました」