“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
「僕は3浪して大学に入ったようなもの」21歳で辞めた高卒Jリーガーが“大手投資銀行の金融マン”になるまで《鹿児島城西では大迫勇也と同じ9番》
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2022/04/29 11:02
春から大手の投資銀行で働く岩元颯オリビエさん。「小さい頃から社会に貢献したいと思っていた」
当時の磐田はFWジェイ・ボスロイドが最前線に君臨していた頃。元イングランド代表の分厚い壁に阻まれた19歳は、公式戦に一度も絡むことなく16年9月に当時JFLだったヴァンラーレ八戸に、さらに翌17年はJ3ガイナーレ鳥取へ育成型期限付き移籍を余儀なくされた。鳥取ではJ3リーグ24試合に出場し、4ゴールを奪ったが、磐田に戻るほどのインパクトを残せずにプロ3年目のシーズンを終えた。
磐田との契約は4年。翌18年も他チームへの期限付き移籍を検討されている中で、岩元はこのシーズン限りで現役引退を決意する。
岩元のようにさまざまなチームに期限付き移籍を繰り返しながら経験を積む選手は多い。高卒で加入したチームに一度も戻ることなく、若くしてプロ生活から退く選手も決して珍しくはない。
だが、岩元のキャリア選択に他の選手との違いを感じるとすれば、それは自らの人生を切り開いていく力だ。“もう1年”粘れたのにもかかわらず、プロサッカー選手へ見切りをつけて、次のステージへ進んでいったのだ。
「サッカー選手になるとき、いずれはA代表になって、ヨーロッパで活躍したいと考えていました。大学を卒業してからでは遅いと感じたので高卒でプロの道を選びました。でも、現実は甘くありませんでした。3年間で見えたのは、サッカー選手としての自分の限界はもちろん、セカンドキャリアに苦労する選手たちの姿。ズルズルとしがみつくのではなく、しっかりと区切りをつけて次の人生を歩もうと思ったんです」
国境なき医師団の父、青年海外協力隊の母
こうした考えが生まれた背景には両親の存在が大きい。父は「国境なき医師団」で活躍した医師で、母は青年海外協力隊で活動した。異国の地を巡る2人の間に生まれた男の子に授けられた「オリビエ」という名前は、妊娠当時に住んでいたカナダのケベック(フランス語圏)の友人が教えれくれた国連の象徴の木である「オリーブ」のフランス語が由来。そこに両親から「世界を吹き抜ける優しい平和の風になれるように」との願いを込められ「颯」という文字が加えられた。「オリビエ」はミドルネームではなく、「颯オリビエ」が彼の正式な名前になる。
早くからサッカーの才能を発揮した岩元だが、そんなグローバルな2人のもとで育ったからこそ、幼少期から“サッカーだけの人生”に疑問を抱いていた。