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「悲恋の極北です」氷上の哲学者・町田樹32歳の今…“強烈すぎる個性派スケーター”はなぜ生まれた?「私はちょっとひねくれているので」 

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松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byAsami Enomoto

posted2022/04/15 11:00

「悲恋の極北です」氷上の哲学者・町田樹32歳の今…“強烈すぎる個性派スケーター”はなぜ生まれた?「私はちょっとひねくれているので」<Number Web> photograph by Asami Enomoto

ソチ五輪5入賞、世界選手権銀メダル獲得など輝かしい成績を残した元フィギュアスケーターの町田樹。32歳になった町田のもとを訪ねた

「大学生になって、幸いにもアイスショーにたくさん出させていただいて、1つの演目をたくさん演じる機会が出てきました。それまでは多くても競技会で1つのプログラムを年に10回くらい演じて、また次のプログラムに移っていたのですが、アイスショーとなると、年に50回とか60回とかになるんです。

 そうなってくると徐々に自分の中でもプログラムに対する新鮮味が薄れてくるわけです。結局、プログラムは踊れば踊るほど摩耗していく消耗品なのかなと。どんどん価値がなくなっていくもの、みたいな考えを抱いていたんです」

「フィギュアスケートの芸術性を愛した」町田にとって、それはスケートを続ける上で大きな悩みとなった。町田のスケート人生を形作るターニングポイントは、ちょうどそんなときのある出来事だった。

「そこから自分の存在意義を認められるようになった」

「ある大学の先生から『プログラムは消耗品ではない。例えばクラシックバレエを観てみなさい。白鳥の湖は何百回と、何千回と、何万回と上演されて、今なお人に愛されている。それはなぜか。上演されるごとに文化的に深みが増し、色んな人が改良を加え、よりよく育てていくという風土がある。そもそも芸術とはそういうものである』と教えていただきました。その時に、ああそうか、と腑に落ちた。

 私はもともと表現面、芸術面に重きを置いていたけれども、フィギュアスケートだってバレエやアート&エンターテインメントと同じような域にいけるのではないかと可能性を見出せた。そこからは、どういう風にその芸術性や表現面を深めていけばいいのかと試行錯誤しながら、主体的かつ能動的にフィギュアスケートに取り組めるようになったんです」

 自分の愛したフィギュアスケートを、自分が愛した芸術の面で深めながら極めていくことができる。『プログラムは消耗品ではない』という言葉と出会ったことで、町田はようやく主体性をもってフィギュアスケートと向き合い始めた。

「もちろん、それまでも漠然と自分の目標はありました。でもその目標というのは、競技会で何位に入りたいか、という競技成績でしか考えられていなかった。私にとってどのような演技が理想なのか、フィギュアスケーターとして何を成し遂げたいのか、という芯の通った志や壮大なビジョンはなかったんです。しかし、『フィギュアスケートはアートであるべき』という志を持ったことで、アートであるためには何をすればいいのか、自分には何が足りないのかということを自ら主体的に考えるようになりました。そこから、フィギュアスケーターとしての自分の存在意義、存在価値を自分で認めてあげられるようにもなりましたね」

 フィギュアスケートに取り組む上での使命感を抱いた、と言えるかもしれない。町田ならではの数々のプログラムが生まれた理由がそこにあった。

「SPは『悲恋の極北』」”町田語録”はなぜ生まれたのか?

 しばしば町田樹というスケーターは“個性的”と表現される。それは一時期メディア紹介やファンの間で親しまれた“氷上の哲学者”という別名からも読み取れる。

 特に異彩を放っていたのが、町田が生み出す言葉だった。

【次ページ】 ”町田語録”はなぜ生まれたのか?

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