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“最強タッグ”スタイナー・ブラザーズはなぜ新日本プロレスを選んだのか? 明かした「ニュージャパンの黄金時代」《WWE殿堂入り》 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph byEssei Hara

posted2022/04/13 17:00

“最強タッグ”スタイナー・ブラザーズはなぜ新日本プロレスを選んだのか? 明かした「ニュージャパンの黄金時代」《WWE殿堂入り》<Number Web> photograph by Essei Hara

1991年3月21日『スターケード in 闘強導夢』で初来日し、いきなりIWGPタッグ王座を奪取したスタイナー・ブラザーズ

「“投げっぱなしジャーマン”は、じつはミスから生まれたんだよ(笑)。ベイダーみたいなデカいヤツを投げようとするとき、両手を相手の腰に回すだけでもやっとだろ? それで持ち上げて投げる時、手のクラッチが外れてしまったんだけど、結果的に相手を後方にぶん投げる形となりうまくいったんだよ。そこから自分たちの得意技にしていったんだ。たとえミスをしてもうまく修正すれば良い結果が生まれるといういい例だね」

“タッグチーム全盛時代”彼らに影響を与えたのは? 

 またリックは、スタイナー・ブラザーズというタッグチームのコンセプトやスタイルを築き上げる上で、1980年代を代表するタッグチーム、ザ・ロード・ウォリアーズ の影響が大きかったとも語っている。

「1980年代後半から1990年代前半は、タッグチームの全盛時代だった。本当に良いタッグチームがたくさんあったからね。ハーレム・ヒート(スティービー・レイ&ブッカーT)、ナスティ・ボーイズ(ブライアン・ノッブス&ジェリー・サッグス)、スカイ・スクレイパーズ(ダニー・スパイビー&シッド・ビシャス)、デモリッション(アックス&スマッシュ)、ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)、それこそ数えきれないほどにね。

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 そんな“タッグの時代”を作り上げるきっかけになったのがロード・ウォリアーズだ。彼らは素晴らしい革命的なタッグチームだった。まずブラック・サバスの入場曲『アイアンマン』が最高だよね。そしてフェイスペイントに筋骨隆々のデカイ肉体、あれを観てしまったら自分たちは何か違うことをやらなきゃいけないと考えたんだ。だから自分たちは原点に戻ってアマチュアレスリングスタイルで、コスチュームはシングレットにカレッジジャケット(スタジャン)。そしてスピード、パワーで魅せるやり方で行こうと思ったんだよ。

 あとはロード・ウォリアーズの得意技ダブルインパクトからヒントを得て、向こうがフライングクローズライン(ラリアット)なら、こっちはブルドッキングヘッドロックで行こうとかね。あの合体ブルドッキングヘッドロックはこうして生まれたんだ。ロード・ウォリアーズは俺たちの世代に多大なるインスピレーションを与えてくれたよ」

マサ斎藤からのオファー「うってつけだった」

 90年代初頭にWCWを代表するスター選手だったスタイナー・ブラザーズは、1992年にライバル団体のWWE(当時WWF)と契約を交わし移籍。WWEでは世界タッグ王者になったものの必ずしも本領を発揮したとは言い難く、わずか2年で退団することとなる。

「1992年にWCWとの契約が切れたとき、当初は再契約を結ぶつもりだったんだけど、スコットとビル・ワット(当時のWCW副社長)の交渉が決裂してね。同時期にビンス(・マクマホン=WWE会長)から連絡があったんで、そっちに行くことになったんだ。

 あの頃のWWEは、ハルク・ホーガンがいて、ブレット・ハートがいて、リック・フレアーもいる黄金時代だったから、すごくやりがいを感じていたんだけど、仕事をする環境としては俺たちにあまり合わなかった。また当時のWWEはステロイドスキャンダルがあって、ビンスも裁判をいくつも抱えていたりして、プロレス以外の雑音が多すぎたから、WWEでの2年間は自分にとってはハッピーではなかったんだ。そんな時、マサ斎藤からオファーがあったので、俺たちはWWEを離れてニュージャパン(新日本プロレス)を選んだんだよ。

【次ページ】 「ニュージャパンには素晴らしいタレントも揃っていた」

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