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「じつはセンバツは甲子園ではなく、名古屋生まれだった」「初の巨人vs阪神もそこだった」愛知県の“消えた野球場”山本球場、今は何がある? 

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鼠入昌史

鼠入昌史Masashi Soiri

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posted2022/03/31 11:10

「じつはセンバツは甲子園ではなく、名古屋生まれだった」「初の巨人vs阪神もそこだった」愛知県の“消えた野球場”山本球場、今は何がある?<Number Web> photograph by KYODO

写真は1932年、第9回全国選抜中等学校野球大会(センバツ)の入場式。すでに甲子園に場所は移っていたが、第1回センバツが行われた山本球場(名古屋)とは?

 山本球場が開場したのは第1回のセンバツから2年前、1922年のことだ。“山本”という球場名は、私財を投じてこの球場を築いた山本権十郎という地元の名士の名にちなむ。

 その頃の八事はというと、1907年には愛知馬車鉄道という馬が引っ張る鉄道のようなものが開通、それが1912年に路面電車となって名古屋の中心部と“鉄道”で結ばれるようになっていた。さらにこの年には丘陵地を切り開いて八事遊園地という遊興施設もできている。競馬場から陸上競技場、ボート場、猿小屋などがあり、路面電車を営業していた尾張電気軌道がお客集めのために設けたようだ。すなわち、江戸時代からの遊興地が近代的なレジャーの町へと発展しようとしていたということだろう。

 

 そんな行楽の町の一角に、山本権十郎さんが山本球場をつくった。愛知県内の名門・愛知一中OBで早稲田大学野球部主将も務めた高松定一の指導も受け、収容人員2000人、約2800坪という愛知県内では初めてとなる本格的な野球場が誕生した。こけら落としのカードは早大野球部と地元の実業団の間で行われたという。

「史上初の巨人vs阪神戦もここだった」

 そこからなぜ第1回のセンバツの舞台になったのか。これは残念ながらよくわからない。野球が盛んな愛知で、だとか、夏の大会ではほとんど関西勢ばかりが優勝していたから愛知県勢にも優勝してほしいという思いがあったからだとかいろいろな説があるようだが、このあたりは憶測の域を出ない。

 第1回のセンバツは8校が出場。開会式では現在の松坂屋に通じる地元名古屋のいとう呉服店の少年音楽隊が登場した。この少年音楽隊はのちに本格的なオーケストラに発展し、現在では東京フィルハーモニー交響楽団になった。こんなところにも、意外な歴史とのつながりがあるのだ。

 8校しか出場していない大会だから日程は4月1日から4月5日までのわずか5日間。高松商業と早稲田実業で争われた決勝戦は2−0で高松商の完封勝利に終わっている。

 これがまさに山本球場がいちばん輝いていたときだった。翌年からはセンバツは甲子園に舞台を移し、以来全国大会が開かれることはなくなった。それでも愛知県内では数少ない本格球場として重宝される。1936年7月には職業野球のトーナメント戦(連盟結成記念全日本野球選手権)が行われている。

 この年の春にもトーナメント戦が行われていたが、巨人軍はアメリカ遠征中で不参加。なので、山本球場がはじめての全球団揃ったプロ野球の大会だった。“伝統の一戦”巨人VS阪神も山本球場がことはじめ。タイガースが8−7で巨人を下し、さらに準決勝も決勝も連勝して名古屋大会で優勝を飾っている。

【次ページ】 では、山本球場はなぜ消えたのか?

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