甲子園の風BACK NUMBER
「じつはセンバツは甲子園ではなく、名古屋生まれだった」「初の巨人vs阪神もそこだった」愛知県の“消えた野球場”山本球場、今は何がある?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byKYODO
posted2022/03/31 11:10
写真は1932年、第9回全国選抜中等学校野球大会(センバツ)の入場式。すでに甲子園に場所は移っていたが、第1回センバツが行われた山本球場(名古屋)とは?
“消えた野球場”山本球場、今は何がある?
するとまず見えてきたのは野球場やその跡地ではなく、興正寺という大きなお寺。境内には五重塔が見える。なんでも、江戸時代の八事は“八事山”と呼ばれる景勝地で、名古屋城下から日帰りで遊興に訪れることのできる尾張藩の人びとの憩いの地であった。五重塔も建つ興正寺は御三家・尾張徳川家の祈願所で、藩主もたびたび詣でたというから立派なものだ。低地に広がる名古屋の城下町からみると、八事は高台の丘陵地。そうした地理的な要素も遊興地になったことに関係しているのだろうか。
などと江戸時代に思いを馳せながら興正寺の前を通り過ぎてさらに進む。この飯田街道は低地部を通っていて、北側の住宅地に入るには急な坂を登っていかねばならない。そして山本球場は、そんな急坂の先にあった。
まったく野球場があったなどとは思いもよらない住宅地の急坂をえっちらおっちら登っていくと、右手に住宅展示場、左手に大きなマンション。まあ、この風景だけならどこにでもあるようなもので、とうてい野球場があったとは想像もつかない。が、古い地図や航空写真と見比べてみると、山本球場はいまマンションが建っているこのあたりにあったようだ。ちょうど、外野フェンスのあたりだろうか。
山本球場の跡地は半分が分譲マンション、半分が賃貸マンションになっているようだ。入居者募集的な貼り紙もあるから、空き室があるのだろう。この中に入っていけば第1回センバツの舞台を歩くということになるのだが、さすがにそれはよくないので球場の外周を歩くことにする。
……が、もうこのあたりはびっしりと住宅地になっていて、球場の周りをぐるっと歩けるような状況ではないのだ。よくこんなところに野球場があったなあと思うくらいにマンションがある。もはやまったく球場とは関係なさそうなところをぐるりと遠回りして歩くこと15分ばかり。ようやく球場の正面(というかバックネット裏のあたり)にまでたどり着いた。球場跡のマンションはこちら側にも入口があるようだ。
2000人収容、愛知県初の本格球場だった
そしてバックネット裏跡地の一角に、「センバツ発祥の地」と書かれた野球ボールを模した大きな碑があった。第1回から昨年までの優勝校の名前が刻まれたレリーフも。わずか1回だけの開催に終わった廃球場の跡地にも、ちゃんと栄光のセンバツの歴史が残されているのだ。
そもそも、山本球場とはどんな野球場だったのだろうか。