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<真相>「このまま(負けっぱなし)じゃ量産に戻れません」ホンダが“新骨格”導入で見せたエンジニア魂《王者フェルスタッペンも感動》
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph byMasahiro Owari
posted2022/03/20 06:00
21年の最終戦でフェルスタッペンが戴冠した後、最後の記念写真に収まったホンダのスタッフたち
21年のホンダF1のスタッフたちは、メルセデスというライバルとの戦いだけでなく、ラストチャンスをくれた会社のためにチャンピオンを奪還しなければならないというプレッシャーとも戦っていたように思う。
そのひとりが、昨年までホンダF1のマネージングディレクターを務めていた山本雅史だ。16年にホンダのF1活動に参画した山本は、常にプレッシャーと戦ってきた。マクラーレンとの関係が悪化した17年にホンダは撤退の危機に瀕し、山本はマクラーレンからだけでなく、ホンダ社内からも批判の矢面に立たされていた。ホンダ本社のエレベーターの中で、「いつF1辞めるの?」と揶揄されたこともあった。
それでも、山本が逃げ出さなかったのは、ホンダという会社を愛し、ホンダの技術を信じていたからだった。山本の忍耐強さがなかったら、ホンダのF1活動は17年限りで幕を閉じていたかもしれない。
ホンダを信じ続けたトロロッソとレッドブル
ホンダを信じていたのは、山本だけではなかった。トロロッソ(現在のアルファタウリ)とレッドブルも、ときにはホンダ以上にホンダのことを信じ、良きパートナーとしてホンダを勇気づけた。トロロッソのフランツ・トスト代表はホンダがマクラーレンと訣別する前から、何度もホンダのドアをノックしていた。またレッドブルはルノーとの関係を解消する1年以上も前にHRD Sakuraを極秘に訪れ、ホンダと組むベストなタイミングを見計らっていた。
ホンダがトロロッソと組み、その後レッドブル・ホンダが誕生し、21年にチャンピオンシップ争いを演じたのは、偶然ではなく必然だったように思う。
だからこそ、彼らはメルセデスを倒して、ドライバーズチャンピオンを獲得した直後に、歓喜の涙を流していたのだった。その様子を見ていた浅木は、言う。
「F1のプロジェクトを引き受けて良かった。ここに来た甲斐がありました。それは私個人にとってということではなく、私と同じく量産部門からHRD Sakuraに来た技術者たちにとってです。私より先にHRD Sakuraに来ていた彼らが、『このまま(負けっぱなし)じゃ量産に戻れません』と言ってくれたから、私も腹を括ってF1の仕事を引き受けた。何も保証はなかったけど、最後に勝てて本当に良かった」
筆者はそんなホンダF1の7年間を取材。さらに昨年1年間は現場で密着し、一冊の本にまとめた。単行本『歓喜 ホンダF1 苦節7年、ファイナルラップで掴みとった栄冠』(インプレス)では、これまで語られてこなかったホンダF1の舞台裏を描いた。
特別な1年を、さらに忘れられない記憶にしてほしい。
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。