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「まさかのセンバツ落選」は祝賀ムードの中で…19年後、青森山田元エースが“甲子園初出場”を果たすまで
posted2022/02/22 06:00
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph by
Ryuki Matsuhashi
今も「あの時」がフラッシュバックする。
センバツ出場を懸けた秋の地区大会で準優勝だった。東北地区からの選考枠は2校のため、代表に選ばれる可能性は高い。
一抹の不安もあった。同県の高校が優勝したため「どうなるかわからない」と、確信を持てぬまま運命の日を迎えた。
野球部の不安を慮るように学校関係者はくす玉を用意し、他の運動部の選手たちも集まってくれたりと、祝賀ムードを作ってくれた。報道陣の数も少なくはない。それだけ注目と関心が高かった。
結果は落選だった。初めてのセンバツ出場は叶わなかった。
青森山田の兜森崇朗(かぶともり・たかあき)監督は、悲報を届けられた際のショックを言葉にしようとすると、今でもトーンが下がる。
「センバツ発表の時期って、青森は一番寒いんです。あの日も吹雪で、雪が1メートル以上積もっていたと思いますが、学校が本当にいろいろと準備してくださって。そのなかでの落選だったので、全員が落ち込みました」
「センバツ初出場」と「甲子園初出場」
この日、1997年2月1日から時計の針を少し巻き戻した、1996年の秋。
青森山田のエース・兜森は東北大会で1回戦から5連投と孤軍奮闘しながら、決勝戦では青森県の覇権を争っていた光星学院に、3-6で屈した。スコアが僅差であることから、2校ある選考枠で選ばれるところではあるが、当時の東北地区は優勝、準優勝が同県だった場合に両校が選出された実績がない。しかも、準決勝で福島県の平工業が光星学院に1-2と善戦していたこともあって、報道等では「青森山田は厳しい」との論調が多かった。
結果的にそれが現実となり、東北地区でセンバツ代表校に選ばれたのは光星学院と平工業だった。日本高校野球連盟とともに大会で主催を務める毎日新聞の当時の記事によると、<打力の青森山田、投手力の平工業は甲乙つけがたく、論議が伯仲したが、地域性と「春夏通じて初の甲子園」が決め手となり、平工業が選ばれた>そうである。
代表2校は初めての甲子園で、青森山田は夏に2度の出場経験があった。だが、春は一度も出ておらず、兜森にとって「初出場」に変わりはない。机上の事実をいくら突き付けられたところで、高校生にとって落選というダメージはあまりにも大きかった。
落選後「練習には身が入らなかった」
兜森が現在の見識を踏まえて、当時の心情を呼び覚ます。