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「まさかのセンバツ落選」は祝賀ムードの中で…19年後、青森山田元エースが“甲子園初出場”を果たすまで 

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田口元義

田口元義Genki Taguchi

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photograph byRyuki Matsuhashi

posted2022/02/22 06:00

「まさかのセンバツ落選」は祝賀ムードの中で…19年後、青森山田元エースが“甲子園初出場”を果たすまで<Number Web> photograph by Ryuki Matsuhashi

失意のセンバツ落選から19年後、2016年センバツで甲子園初出場を果たした兜森崇朗監督(青森山田)

「今振り返ると、もうちょっと結果にとらわれない頑張りというか、自分のやるべきことを果たせたのなら、また違う結果になっていたんでしょうけど。いかんせん、やっぱり甲子園に行きたかったんですよね」

 1度も聖地のマウンドに立つことはなかったが、「やり切れた」と兜森は言った。

 かといって、高校時代の経験をその後の野球人生の全てでプラスに転換できたのかというと、そうではなかった。

兜森が抱いた新たな夢「教え子を甲子園に」

 高校で完全燃焼できたが故に、大学時代は目的意識を失った。青森大ではプレーヤーとして精進する気にはなれず、「4年間、ほとんど何もしていなかったに等しいですよ」と、兜森は自嘲気味に笑った。

 ただし、それはあくまでプレーヤーとしての話である。「何もしていなかった」期間、兜森は母校の筒井中で臨時コーチとして後輩たちを教えるようになった。それが高校野球の指導者を目指す契機になったと話すが、理由はそれだけではない。

「甲子園を見たり、野球を教えていると、やっぱり高校野球の素晴らしさに惹かれていくんですね。『教え子を甲子園に連れていきたい』って新たな夢ができたのも、あの結果があったからだと思います」

 兜森の野球人としての経験が生かされる。

 青森大を卒業後に母校の野球部で副部長とコーチを8年。15年8月に監督となった兜森は、09年夏を最後に甲子園から遠ざかる野球部の再建を託された。始動したばかりの新チームには、エースの堀岡隼人(巨人)や好打者の三森大貴(ソフトバンク)ら力のある選手が揃い、監督就任直後ながら勝算はあったという。秋の県大会準決勝であの八戸学院光星(光星学院から校名変更)に敗れても動じなかったし、むしろ自身の高校時代の経験を伝えることでチームの結束を固められた。

 その上で兜森は、選手にこう告げた。

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