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“元同部屋”森保監督へ集まる批判に「羨ましいな」 大谷翔平の母校・花巻東で指導する柱谷哲二(57)が今も抱き続ける野心とは?
posted2022/01/31 11:04
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph by
Keiji Ishikawa
元日本代表のキャプテンで、「闘将」と呼ばれた柱谷哲二は、稀有な指導者キャリアの持ち主である。
S級ライセンスを取得してすぐ、J1クラブの監督に就任したのだ。
正確に言うと、オファーが届いたのはS級コーチ養成講習会を受講している最中だった。
それまでの指導歴は母校の国士舘大でのコーチ経験しかなかったが、2001年11月、J1残留を決めたコンサドーレ札幌から、翌シーズンの監督就任を打診される。
「びっくりしたけれど、『やってください』と言われたわけだから、断るという選択肢はなかった。少し悩んで、『ぜひやらせてください』って答えたんだ」
結果は……1勝6敗で最下位に沈み、リーグ7節を終えた段階で途中解任――。
「免許取り立てで初心者マークを付けて、フェラーリに乗ったようなものだよね。思い切りクラッシュしちゃう、みたいな(笑)。監督業について分かってるつもりだったけど、何も分かってなかった。札幌の皆さんには迷惑をかけてしまった」
柱谷が現役を退いたのは98年シーズンのことだった。所属するヴェルディ川崎から構想外を言い渡されたのだ。このとき、柱谷は34歳。
現役続行の意向を示した柱谷のもとに、誕生したばかりの横浜FCからオファーが届く。
「当時JFL(J3に相当)で、監督はリティ(ピエール・リトバルスキー)。『1500万しか出せないんだけど』と言われたけど、彼らにしてみれば大金なわけ。僕も現役を続けたいと思っていたとはいえ、アキレス腱が痛くて、朝は階段の昇り降りもできない状態。これでお金をもらうのは忍びないという気持ちになって」
こうして柱谷は日産自動車、ヴェルディと続いた12年間の現役生活に幕を下ろした。
「ラモス(瑠偉)さんも98年限りで辞めていて、俺はどうしようかなあって。今思えば、日本代表を諦めたとき、現役引退も意識していたのかな。オーバートレーニング症候群になったり、肩甲骨を骨折したり、足もボロボロだったから」
オフトがいる浦和からコーチ就任オファー
指導者に転身し、札幌で壮大に失敗した柱谷に次のチャンスが巡ってくるのに、そう時間はかからなかった。
03年、浦和レッズからコーチ就任の話が舞い込む。
当時の浦和の指揮官は、元日本代表監督のハンス・オフトだったから、柱谷はてっきりオフトに呼ばれたものだと思っていた。
「ところが、社長の犬飼(基昭)さんが『俺が呼んだんだよ。俺のことを覚えているか』って。僕は覚えてなかったんだけど、かなり昔、タイで行われたユースの大会に出場したときに、現地で僕らの世話をしてくれたのが三菱のタイ支局長だった犬飼さんだったの。それ以来ずっと気にかけてくれていたみたいで」
浦和では主にサテライト(2軍チーム)を任され、若手の育成やユースチームとの連係に尽力した。
トップチームではオフトのもと、田中達也、鈴木啓太、長谷部誠、坪井慶介らが主力に成長し、03年にナビスコカップを制して初のタイトルを獲得。04年にはOBのギド・ブッフバルトを監督に迎え、田中マルクス闘莉王、三都主アレサンドロを加えて、セカンドステージを制覇する。
ところが、黄金期を迎えつつあった浦和から、柱谷は3年で離れることになる。
初めてJ2に降格した古巣の東京ヴェルディから、切実なオファーが届いたからだ。
監督に就任するラモスをコーチとして支え、J1復帰に力を貸してほしい――。