Jをめぐる冒険BACK NUMBER
「7500万だったかな。倍以上だった」柱谷哲二が明かすJ開幕前の“日産→読売”禁断の移籍、和司の「行くな」とラモスの「来い」
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byShinichi Yamada/AFLO
posted2022/01/31 11:02
天皇杯を制した日産自動車時代の柱谷哲二(右)と松永成立(1992年1月1月)
92年夏、よみうりランドの練習場に通うようになった柱谷がまず驚いたのは、自主練習の量だった。チャラチャラして見えた異端児たちは、実はストイックな集団だったのだ。
「『お疲れー』なんて言って帰るふりをして、ランニングシューズに履き替えて、ランドの階段をダッシュしていたり。朝、クラブハウスに来たら、カズ(三浦知良)がひとりでシュート練習していたり。日産とは比べ物にならないくらい、自分自身を追い込んでいた」
もっとも、想像どおりの一面もあった。
「そうかと思えば、夜はみんな、しっかり遊ぶ(笑)。六本木あたりに繰り出すんだよね。いくつかのグループがあって、僕はいろんなところに顔を出させてもらった。今日はカズたちと、今日はタケちゃん(武田修宏)たちと、今日はラモスさんたちとっていう感じで。ただ、のんべの戸塚(哲也)さんは居酒屋派だから、日産時代と同じような感じだった(笑)」
柱谷を加えたヴェルディは、92年9月から11月に掛けて開催されたJリーグプレ大会のヤマザキナビスコカップで優勝した。
そして93年、ついにプロサッカーリーグ開幕を迎えるのである。
「もう嬉しくて、1週間ぐらい寝られなくてね。興奮しちゃって」
栄えあるJリーグ開幕戦を1週間後に控え、柱谷はUAEにいた。アメリカW杯アジア1次予選の第2ラウンドを戦っていたのだ。
5月7日、最終戦のUAE戦に1-1で引き分け、7勝1分で10月に予定されていたアジア最終予選への進出を決めた。
「その試合が終わった瞬間、1週間後の開幕のことが頭をよぎって、『おい、開幕だなあ、井原。勝負だぞ』なんて話していた」
東京プリンスホテルに前泊したヴェルディの面々は5月15日、バスで国立競技場に乗り込んだ。
スタジアムに近づくと、周囲は人々でごった返し、入場待機列に並ぶ大勢の観客の姿が目に飛び込んできた。
「これだよね!って。ロッカーに入って、もう楽しみで、楽しみで。着替えてアップしているからセレモニーは見られないんだけど、これまでに聞いたことのない大歓声が耳に入ってきて、アップどころじゃなかったね」
やがて選手入場の時間となり、カクテル光線に照らされた国立競技場のピッチに足を踏み入れた。その後、TUBEの前田亘輝が君が代を鮮やかに歌い上げる。
「都並(敏史)さんも大声で歌っていたけど、キーが外れていて、思わず笑っちゃったよ」
火がついた和司さんの「ちゃぶれ」
とはいえ、マリノスとの開幕戦はヴェルディにとって苦いゲームとなった。
これまでブラジル路線を続けてきたヴェルディはJリーグ開幕を目前にしてオランダ人コーチを招聘し、助っ人もオランダ人に刷新していた。
ただでさえ、柱谷、カズ、ラモス、武田、都並、北澤豪といった主力選手が日本代表のW杯予選のためにチームを離れていたのだ。連係を磨く時間はまったくなかった。
案の定、試合はマリノスのペースで進んだ。
「組織力は明らかにヴェルディのほうが劣っていた。特に攻撃はバラバラだったね」
オランダ人FWへニー・マイヤーのミドルシュートでヴェルディが先制したものの、エバートンとラモン・ディアスにゴールを奪われ、逆転されてしまう。
ヴェルディは反撃の機会を見出せないまま、ゲーム終盤を迎えた。
「和司さんの『ちゃぶれ』という声が聞こえて。『ちゃぶれ』というのは、『遊べ』『おちょくれ』っていう意味。その声を聞いて、カーッとなって」
マリノスの選手をガツンと削った。それが誰なのかを認識せずに。
「そうしたら井原だった。『うわ、ごめん!』って。ケガしてないといいなと思った(苦笑)」
翌日には残りの4試合が行われ、鹿島アントラーズのジーコがガリー・リネカー擁する名古屋グランパスエイト相手にハットトリックを達成するなど、各地で熱戦が繰り広げられた。
水曜と土曜にゲームが行われる過密日程、引き分けなしのVゴール、PK戦で決着をつける独特なスタイルで試合が重ねられていく。
93年夏の日本列島は、Jリーグブームに覆われていた。
柱谷が病魔に襲われたのは、そんな頃だった――。
(つづく)
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