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JRA賞の大疑問「マルシュロレーヌは本当に特別賞に値しないのか?」史上初の日本馬BCディスタフ制覇は“63年越しの偉業”だった 

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島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

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posted2022/01/12 17:05

JRA賞の大疑問「マルシュロレーヌは本当に特別賞に値しないのか?」史上初の日本馬BCディスタフ制覇は“63年越しの偉業”だった<Number Web> photograph by Getty Images

ブリーダーズカップディスタフにて日本馬として初優勝を果たしたマルシュロレーヌ

アメリカではダートが「メイントラック」

 日本馬による戦後初めての海外遠征が行われたのは、1958(昭和33)年のことだった。東京タワーが完成した年である。

 遠征したのは、その2年前に日本ダービーを制したハクチカラ。主戦騎手の保田隆芳とともに、羽田空港からチャーター機でロサンゼルスへと渡った。日本で馬を空輸するのは初めてのことで、人間用の旅客機の座席を取り払い、馬をつなぐスペースをつくった。日本ダービーの1着賞金が200万円の時代に、遠征費の総額は1000万円ほどにもなった。

 ここに「戦後初」と記したのは、それ以前にも日本馬が海外で戦ったことがあったからだ。日本の人馬による初めての海外遠征は、1909(明治42)年。遠征先はロシアのウラジオストックだった。日本は馬券禁止時代で、ホースマンは資金不足で苦境に陥っており、打開策のひとつとして「日露大競馬」が行われたのだった。1913(大正2)年には中国の旧満州に日本の人馬が遠征し、競馬が行われたという記録も残っている。

 しかし、もともと競馬が番組(スケジュール)に従って運営されていた異国に遠征したのは、ハクチカラが初めてだ。つまり、実質的に、近代競馬における初の海外遠征の行き先はアメリカだったと考えていい。

 そのハクチカラの渡米初戦は、58年7月2日、ハリウッドパーク競馬場(2013年に閉場)のダート1700mで行われたアローワンス(一般戦)だった。9頭立てのこのレースで、保田が乗ったハクチカラは、勝ち馬から15馬身ほど離されたしんがりに終わった。日本のダービー馬がなぜダートのレースに出たのか不思議に思われるかもしれないが、アメリカでは、コース幅を広く取れて、観客席に近い外側にダートコースがあり、その内側に芝コースがある。そう、日本と逆で、ダートが「メイントラック」なのだ。クラシックはすべてダートで、そのほかの高額賞金レースも、ダートのほうが圧倒的に多い。

多くの日本馬が、米国ダートの壁にはばまれてきた

 ハクチカラで5戦し、同年秋に帰国した保田は、アメリカで習得したモンキー乗りを日本にひろめた。それまでは、鐙を長くして両方の脚で馬の体を挟んで乗る「天神乗り」が主流だったのだ。その後、保田は、日本人騎手初の通算1000勝、八大競走完全制覇といった偉業をなし遂げる。

 ハクチカラは保田の帰国後もアメリカに残り、59年2月、サンタアニタパーク競馬場の芝2400mで行われたワシントンバースデーハンデキャップで日本馬による海外重賞初制覇を達成。芝では初めての海外遠征から結果を出していたのだ。

 その後も日本馬はアメリカに遠征し、ダートへの挑戦をつづけてきた。1995年にはスキーキャプテンが日本馬として初めてケンタッキーダービーに出走するも14着。翌96年にはタイキブリザードが日本馬として初めてBCクラシックに参戦して13着。芝では、2005年にシーザリオがアメリカンオークスで日本馬初のアメリカGI制覇を達成したが、層の厚いダートでは苦戦がつづいた。世界で最もサラブレッドの生産頭数が多いアメリカのダートのレベルは、とてつもなく高いのだ。

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