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「もっともっとできたのに」わずか“0.17の差”だった鈴木明子vs中野友加里…2009年全日本フィギュア「名勝負」を振り返る
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byAFLO
posted2021/12/23 11:05
2009年の全日本フィギュア選手権。バンクーバー五輪代表選考も兼ねたこの大会で「名勝負」は生まれた
さまざまな要素を考慮しての結論だっただろう。ただ、全日本選手権の順位が決め手となったのは否めなかった。
鈴木と中野の得点差は、わずか0.17点、でも限りなく大きな0.17点だった。
中野の言葉は重さを持って、今も心に残る。
「もっともっとできたのに、という気持ちがあります。ジャンプについてがほとんどですけど、スピンをもっと速く回れたのに、冒頭のジャンプでトリプルアクセルもやろうと思えばできたのに。そう思います」
2人には、それぞれ期するものがあった。
あらゆる試練を乗り越えてきた2人だった
鈴木は摂食障害により2003-2004シーズンは欠場。翌シーズンに復帰し時間をかけて滑りを取り戻し、2008-2009シーズンのNHK杯に開催国枠で参加した。それが初めてのグランプリシリーズ出場だった。その後も上昇気流を描きオリンピックを視野に入れるところにたどり着いての全日本選手権だった。
中野の懸ける思いも並々ならぬものがあった。トリノ五輪シーズンにNHK杯でグランプリシリーズ初優勝を遂げ、グランプリファイナルにも進出し3位。惜しくも五輪代表にはなれなかったが、このシーズンの成績が勢いだけではなかったのはその後の活躍に表れていた。世界選手権には2006年から3年連続出場し、グランプリファイナルも2007-2008、2008-2009シーズンと出場。伊東委員長が「実績」と表すだけの結果を残してきた。
ただ、伊東氏が「左肩」と言ったように、バンクーバー五輪シーズンはグランプリシリーズ初戦のフランス大会を前に左肩を脱臼。その影響は小さくなかった。
それでも立て直し、迎えたのが全日本選手権だった。
「寝てもさめても全日本の事が頭にあった」
苦難や悔しさを乗り越えてオリンピックを現実のものとするまであとわずかな距離にたどり着いたからこそ、これ以上ない重圧があった。中野の言葉が端的に示している。