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ジャイアント馬場は「2階から球が落ちてくる」コントロール投手だった? “巨人の名スカウト”や王貞治らの評価とプロレス転向
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2021/12/20 11:04
巨人軍時代の馬場正平。この数年後、プロレスラーへの道を歩むことになる
10月15日の阪神戦で再び登板機会が巡ってきた。今度は後楽園球場。4-0の9回に登板した馬場は三者凡退、2三振に切って取っている。捕手は藤尾茂だった。
監督らの確執に巻き込まれた?
10月23日、馬場の野球人生のハイライトともいうべき試合がやってくる。
2日前にリーグ優勝を決めた巨人、水原監督はシーズン最終日のダブルヘッダーの第一戦に馬場を先発させた。
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中日の先発は大投手・杉下茂。この試合で史上7人目の200勝がかかっていた。水原監督が一軍経験わずか2試合の馬場正平を先発させたのは、ある意味で長年のライバルだった杉下に200勝を進呈するための「ご祝儀」のような意味合いがあったと思われる。
馬場は初回に1点を失ったが、5回まで1失点の好投。しかし水原監督は、5回裏、馬場に打順が回ると代打を送って馬場をひっこめた。後続の投手が打ち込まれ巨人は0対10で敗れた。捕手は藤尾茂。杉下茂は200勝を達成した。
この試合について筆者は杉下茂に話を聞いたが、杉下は気の毒そうな顔をして、「馬場君と投げ合ったことも、何も覚えていないんですよ」といった。大投手・杉下茂にとって、200勝は節目ではあったにしても消化試合だったし記憶には残らなかったのだ。
この試合を最後に、馬場は二度と一軍に呼ばれなくなる。杉下茂に200勝を進呈するつもりだった試合で頑張りすぎた馬場を水原監督が「空気を読まない奴」と嫌ったからだという説があるが、その背景に水原監督と当時の読売巨人軍社長、品川主計との深刻な確執があった。
品川社長は二軍監督の新田恭一を通じて二軍を掌握していて、一軍監督の水原と対立していたが、このオフ、品川社長はメディアの前で「水原君、あやまりたまえ」と発言して大騒ぎになる。馬場正平は二軍生活が長く、品川一派だとみられていたのだ。
持ち前のサービス精神で二軍の人気者に
結局、馬場正平の一軍成績は3試合0勝1敗7回0与四球3奪三振、自責点1防御率1.29で終わっている。
しかし翌年以降も馬場は二軍では投げ続けた。この時期から馬場正平は、二軍の人気者となる。行く先々でプロモーターが「巨人軍の巨人馬場来る」と前宣伝をして盛り上げた。馬場自身もサービス精神が旺盛で、右腕を水車のようにぐるぐる振り回して投げて人気を博したという。
また1958年には長嶋茂雄、1959年には王貞治が入団しているが、馬場は長嶋のキャンプ初日はキャッチボールの相手をし、王は打撃投手を務めている。
王貞治は後年、馬場の投球についてこのように語っている。