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ジャイアント馬場は「2階から球が落ちてくる」コントロール投手だった? “巨人の名スカウト”や王貞治らの評価とプロレス転向 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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photograph byKyodo News

posted2021/12/20 11:04

ジャイアント馬場は「2階から球が落ちてくる」コントロール投手だった? “巨人の名スカウト”や王貞治らの評価とプロレス転向<Number Web> photograph by Kyodo News

巨人軍時代の馬場正平。この数年後、プロレスラーへの道を歩むことになる

「巨人中の巨人である六尺四寸の馬場投手が大手術をした結果、経過良好ということである。馬場の視力が衰えたのは“脳下垂体の異常発達”というものだそうで、この治療には頭のテッペンを切って、脳の内部に大改造を加えようという大掛かりなものだった」

 この記事からしても、馬場の手術が1956年12月にあったという事実は動かない。

1957年に迎えた「キャリアハイ」の成績とは

 視力を取り戻した馬場正平は、翌1957年、野球選手としてのキャリアハイを迎える。

 この年の最初の登板は、4月16日、多摩川球場で行われた東映戦。馬場は先発したが1対4で敗戦投手になる。

 戦評では「この試合は馬場投手が登板した時を狙われたもの。まだまだ自分の体を持て余している感があり大きすぎる投球モーションはランナーがいる時は特に注意を必要とするのではないか」とある。

 5月以降は先発投手の一角を担う。

 巨人の二軍は6月25日から東北、北海道遠征に旅立った。この年も馬場はメンバーに加わった。帯同したのは国鉄と大洋。国鉄との巡業では、通常列車の編成の後ろに巨人、国鉄の選手用に列車を2両つないだ。交通費は免除されたので、巨人は大いに助かった。

 前年まで、馬場の相方の捕手は加藤克巳が務めることが多かったが、シーズン前半に加藤は一軍に呼ばれ、この年の遠征には参加していない。しかし例年、夏の遠征は楽しかったようで、

「地方だから小さな球場ですが、どこでも満員でした。当時の東北、北海道は炭鉱の景気が良かったんです。慰安の目的で、炭鉱の町がチームを呼んだ。だからどこも、炭鉱の職員やその家族でいっぱいでした。特に夏休みでしたから、子どもがいっぱい来ましたね」

 と話している。

 そしてこの秋、馬場正平はついに一軍に昇格することになる。

「2階から球が落ちてくるようやった」

 馬場が一軍に引き上げられたのは、8月21日の広島市民球場での広島戦。このときは、フリーバッティングの投手を務めている。

 一軍デビューは、8月25日、甲子園球場の大阪タイガース戦。ダブルヘッダーの第2戦、満員だった。馬場正平は、9点を奪われ敗色濃厚の9回裏にマウンドに上がった。

 馬場がベンチからマウンドへ向かうときに、大阪の監督だった初代ミスター・タイガース藤村富美男はすれ違いざま、ドスの利いた声で「おい、ストライク入るかい」と言ったという。

 先頭打者は一番、遊撃手・吉田義男。身長は167cm、馬場との身長差はおよそ30cm。

 捕手は同期の森昌彦。吉田は「2階から球が落ちてくるようやった」と述懐しているが遊ゴロに打ち取る。続く二番右翼手・並木輝男は二ゴロ、三番左翼手・大津淳は遊直。阪神の上位打線を三者凡退に退けた。

【次ページ】 馬場が二度と一軍に呼ばれなかったワケとは

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