酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
ジャイアント馬場は「2階から球が落ちてくる」コントロール投手だった? “巨人の名スカウト”や王貞治らの評価とプロレス転向
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byKyodo News
posted2021/12/20 11:04
巨人軍時代の馬場正平。この数年後、プロレスラーへの道を歩むことになる
「オーバーハンドではなく、どちらかというとスリークオーター気味のフォームだったので、威圧感はありませんでした。スピードもびっくりするような球速ではなかった。だけど、ボールの球質はとても重かった」
1959年の馬場は春先に肩を痛め、10月には左ひざをねんざ。二軍での成績も下落したが、この11月9日に「整理」を通告された。
馬場をスカウトした源川英治スカウトは、以後も何くれとなく馬場の面倒を見ていたが、この年に谷口五郎と共に大洋ホエールズに移籍、そして馬場に「入団テストを受けないか」と声をかけた。
35針縫う大けが、そして力道山の門下へ
馬場は12月に多摩川で入団テストを受けて合格、翌年の明石キャンプにも参加したが、2月12日、宿舎の風呂で転んで左わき腹から左腕の内側にかけて裂傷を負った。35針も縫う大けがだった。このためにグローブに手をはめることができなくなり、馬場は野球を断念した。そして力道山の門を叩き、プロレスラーの道を歩むことになるのだ。
馬場正平の球を最も多く受けた加藤克巳は、その投球についてこう回想していた。
「ボールは重かったですが、速さはそんなになかったですね。球種はまっすぐとカーブ、シュート。ナチュラル気味でした。それからどろんとまがる大きいカーブ。アウトドロップと言っていました。
馬場のいいところは、コントロールが良かったことです。あれで四球ばかり出したら試合にならない。二軍には球は速いけど、力んじゃって、歩かせてばっかりでゲームをつぶしてしまう投手はいっぱいいました。でも馬場はそういうことはなかったですね。だから一軍でも何とか試合にはなった。ただ、手が大きすぎて、スナップスローができなかった。指の腹でボールを支えて投げていました」
と語っている。二軍ではエースだったか? と聞くと「それはちょっと言いにくい」と微妙な言い方をした。
”ジャイアント馬場”の基盤になった野球生活
1960年の「週刊文春」3月28日号に、「巨人軍を追われた“ミスター巨人”」というタイトルで、見開きで馬場正平の記事が載っている。
馬場は「もう何でもやろうと思っています。どうせつらいなら相撲よりプロレスの方がいいかな。そりゃ野球には大いに未練があるけど。とにかく、みみっちい話だけど生活費を稼がなくては」と語っている。
そこに掲載された馬場の写真は意外なほどに爽やかで、好青年というイメージだった。
馬場正平はプロ野球での成功を夢見たが、果たせなかった。そして野球界のしがらみにも巻き込まれた。しかしそういう形で世間を知り、巨体のメリットを活かして生きていく術を学んだ馬場は、次のプロレスの世界で選手、そしてプロモーター、経営者として大成功を収めるのだ。
そういう意味では、野球選手・馬場正平の5年間は決して無駄ではなかったのではないか。<第1回、第2回から続く>