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体重50kg以下の“ガリガリ少年”が琉球で歩んだ格闘人生 「やり続けてよかった…」砂辺光久が語るRIZIN沖縄大会の意義
posted2021/11/28 11:01
text by
布施鋼治Koji Fuse
photograph by
RIZIN FF Susumu Nagao / Mitsuhisa Sunabe
「プロレスをやりたいんです」
その一言を聞いた沖縄では数少ない高校レスリングの指導者・津森義弘(現・沖縄県レスリング協会会長)は目を疑った。
まっすぐな視線を向けながらそう主張する少年は体重50kgにも満たない、ガリガリの体型をしていたからだ。現在とは異なり、まだプロレスラーといえばヘビー級が当たり前の時代だった。「君の身体でプロレスなんて到底無理」と止めようとした刹那、津森は「ちょっと待てよ」と言葉を呑み込んだ。
まだちびっこレスリングが確立していない頃で、高校入学後に初めてマットに立つ子は珍しくなかった。そこで「アマチュアレスリングをやってくれるだけでありがたい」と気持ちを切り替えたのだ。
少年の名は砂辺光久といった。
五輪メダリストの父も称賛「目つきが違う」
津森とともに沖縄でレスリングの指導に心血を注いだ屋比久保は「正直、砂辺君は高校での実績はほとんどなかった。高校の頃は身体が弱かったし、全国で勝負できるような感じではなかった」と記憶している。屋比久の息子の翔平は今夏、沖縄出身のレスラーとして初めてオリンピックに出場し、グレコローマンスタイル77kg級で銅メダルを獲得した。
しかし地元の高校を卒業後、総合格闘技に転向した砂辺には、屋比久も注目せざるをえなかった。
「レスリングをやっていたからタックルもできる。何よりもデビューした頃から目つきが違う。相手を射止めるような目をしていました。総合格闘技の世界でどんどん強くなっていることもわかったし、大器晩成だったのでしょう」
砂辺の高校卒業後も、屋比久との交流は続いた。「タックルをしっかりもう一度練習したい」と、砂辺は沖縄県下で就職したレスラーたちが集まって練習していたサークル「オジレス」にも頻繁に顔を出すようになったのだ。屋比久は砂辺の練習ぶりをこう振り返る。
「研究熱心だったし、何よりも貪欲だった。沖縄のプロは勝たないと、東京の興行に次も呼んでもらえない。やっぱりプロとアマチュアは違うなと思いました」