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「スケートのシーンを変えられる」小学生だった堀米雄斗の支援を早川大輔コーチが決意した2つの理由〈遠征費も自腹だった〉
posted2021/09/30 11:05
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph by
Yoshiko Kojima
「ちょうど35年です」
スケートボードと出会ってからの期間を早川大輔はこう語る。35年目となった今年、初めてオリンピック競技となったスケートボードは、選手の活躍とその魅力によりブームを巻き起こすこととなった。
早川はスケートボードで人生を形作ってきた。
「基本、スケートボードをする時間がまずあって、ほかのことをやるというスタンスです。滑っていないと何もできないというのは自分にはあります。仕事もそこからの選択ですね。仕事に限らず、人生においてもクリエイティブにしていくというのはスケートボードで培った考え方です」
19歳で初めてアメリカ・ロサンゼルスに渡り、スケートボードで生きる決意が固まった。その後も何度かアメリカに足を運んだ。やがて結婚することになり、日本でアメリカのようにかっこよくやりたい、伝えたいと考え、日本に腰を据えた。
自腹で若手選手たちの遠征費を捻出
あるとき、スケートボードの仲間が子供を連れてきた。堀米雄斗だった。早川は堀米の才能を見抜くと、サポートしようと決意する。
その一環として中学生になった堀米をアメリカに連れていった。のちに堀米とともに池田大亮、池慧野巨もアメリカに連れて行った。
「最初に雄斗を。そのうち、『うちの子も』と声をあげる親御さんがいて、雄斗に近い実力者だったから、まとめて連れて行きました」
とはいえ、早川も含め、例えば強化費や遠征費の類がどこかから出てくるというわけではない。選手の分も含め、金銭的な負担も大きかったのではなかったか。
「うーん、まあ、そのへんはありました。協会とかサポートしてくれているスポンサーに声をかけたりしたけれど、何十万もお金を出してくれるところはなかったし、メディアにも結果が出ないと記事にもできないと言われて」
最初は協力してくれる人はほとんどいなかったが、「徐々に共感する人が出てきて何回か行けるようになった」と言う。それでも、そのスタートから、持ち出した金額は小さくなかっただろう。しかも自費での負担が容易ではない事情があった。